今日の行程は、花蓮へのつなぎで、60kmとやや短い。ふつうに走れば半日で終わる、花蓮までだと120kmを超える、それと昨日寄りそこねた“金城武の樹”もあるし、最後に坂もありそうなのでちょうど良いかもしれない。
ginnanさんは一日前に泊って、昨夜は花蓮泊で、今日は清水断崖かと思う。
結果として高雄から花蓮までの全工程を自転車で走ることができた。この間を輪行する想定でいっぱい調べてきたが、天候に恵まれて順調に寄り道をしながら走れた。途中で雨に降られた場合は台東~花蓮間を輪行で飛ばすつもりでいた。
寿峠から旧草嶺トンネルの間は、台湾サイクリングの秀逸だ。道は広いし、車は少ない、景色も変化にとんでいる。実に気持ちよく走れる、台東から花蓮間はさほど期待をしていなかった。しかし、自転車で走ること自体を楽しいと思う人にとっては最高の区間だと思う。
前日、のんびりしすぎて伯郎大道へ寄れなかった、今朝は少し戻ることになった。
宿からは10分ほどのところだった。


宿を出たのは8時を過ぎていたが、雲が多く少し肌寒かったので、台湾にきて初めて上に一枚はおった。伯郎大道画框の直線は中央山脈の方向に、すーっと伸びている。あたりは一面稲穂の海で、稲刈りが始まっている。一般車両の通行が禁止されていて、向こうからトラクターがとことことこちらに向かってくる。半袖に短パンのジジイは少しだけ肌寒い、朝早くから観光に来ている台湾婦人は厳冬期の格好で、ぼっこり着こんでいる。ほかにレンタルバイクに乗った人が遠くに数人みえる。
ロケーションは、たんぼが広がったところに道があるだけ、景色はいいのだが、特別なにもない。
金城武の樹に寄ってみた。どうして金城武なのかわからなかった、日本人だと思っていたのだが台湾人だった。諸葛孔明の役で映画に出ていて、なかなかいい男なのに、日本のTVや映画の出演がないので不思議だった、ここで腑に落ちた。

エバー航空のCFで金城武がこの道を自転車で走って、樹の下でお茶を飲むシーンが出てくる。ヨーロッパや奈良なども登場する。お茶を飲むシーンのときやかんが出てくるのが台湾らしい。
最近日本でもはやりの聖地巡礼で、一躍有名になったらしい。日本でもこのCMは流れたらしい。ともかく、これで腑に落ちた。
ちなみに、chuさんは金城武を知らないといった。嘉義のHotelで、私が中国へ行った時の話をした、上海から蘇州・無錫へ行った時の経験を話した。今は無錫の漢字は変換の効かないような字を書く。
尾形大作も無錫旅情も太湖もchuさんは知らないと言った。スマホで♪無錫旅情を流したら、ginnanさんが歌った。chuさんは、あっ!聞いたことがある、といった。
話を金城武に戻すと、さしずめ台湾のキムタクといったところか。樹の種をwebで調べてみたら、司教木とでた、私はこの木をしらない。 “武”つながりでもう一つ、台湾での話をしたい。
20年も前になるか、当時、大阪の取引先に奥森武さんという社長さんがいた。私が仕事で高雄に滞在しているとき、武社長も高雄にいることがわかった。私の訪問先の王茂雄社長の工場へ行かないかと誘ってみた。
翌日、高雄のHotelで落ち合って、林家定さんと総勢5人で王社長の工場を訪れた。
武社長は資材の買い付けのため訪台中で、私としては王社長の工場でなにか買えるものがあれば、と思って仲介したのだ。
この方は、同志社大学の出身で大阪なまりの英語を話す。chuさんより声が大きい、電話で海外と打合せを始めると、周りの人はなにも聞こえなくなって部屋から出ていく。息子さんは真逆でおとなしく紳士だ、中国語を勉強中で手を焼いていると言っていた。武社長は同志社のことを、スパイの大学だと言っていたが、その逸話がおもしろい。
無錫のHotelで朝飯を食いながら現地のエイジェントと話を始めたら、私のつたない英語にしびれを切らして大阪なまりの英語で乱入してきた、結果、よけいに訳が分からなくなってしまった。
武社長は大阪商人を絵にかいたような人で、とにかく安くたたいて買い付ける。吉本新喜劇のような調子で、「なにを買って欲しいんや!!」と、完全に上から目線で王社長に挑みかかった。私も驚いたが王社長はもっと困惑した。この失礼な日本人に怒ってしまい大失敗だった。
この時期、台湾経済は上向き始めていて、日本が好き放題できた時代は終わりかけていたのである。私の欲しい材料はインドネシアやもっと先から出る、高雄や台中の港に降ろしてしまって、半分も名古屋港に来なくなっていた。日本での加工をあきらめて台中や高雄の工場へ買いにきていた。「日本は貧乏なんだから、安くしてよ」そう言って王社長や台中のドラゴンに頼むようになっていた。
上海を出たコンテナは4日で名古屋港についていたが、台中や釜山に寄港するようになって2週間もかかるようになっていた。すでに日本経済は失速してこの国に追いつかれようとしていた時期なのだ。
私の出張先はマレー半島やインドネシアに移っていった。
武社長は何も買えなかった、売ってもらえなかった。
次の訪台は高雄だけだったので若い担当を王社長の工場へ出した。
彼は王社長に「なぜ、王貞治と長嶋茂雄を合わせた名前になったのですか」とたずねてひんしゅくをかった、と、のちに林家定さんから聞いた。
彼は王社長のパパが元日本人であったことを知らない。
王茂雄社長の工場近くを通ったが、景色は大変りで面影などなかった。
池上から15㎞ほどのところで9時を過ぎた。今日の行程は短い、コーヒーブレイクしようとなった。私は喫茶店でコーヒーを飲む習慣はもうない。この旅でコンビニのコーヒーをよく飲む、22,000円の悠遊卡(ヨウヨウカー)を使わねばと、コンビニによく立ち寄る。

google で調べたら少し先に喫茶店を見つけた。
喫茶店はすぐに見つかったが、webの画像と大違いで、店の名は富里深山咖咷館、営業しているのかつぶれているのかわからない、中をうかがってみても暗くて人の気配が無い。
webの情報ではしゃれた大都会のカフェのように混んでいるのだ。台湾あるあるだった。
あきらめて近くの駅に移動した。少し先へ進めばファミリーマートがあると分かっていたが、手前のY字路を左に入ってみた。
何でもない田舎道だけど、吸い込まれるように迷い込んでみた。chuさんはけげんそうだった、私の方がよほどめんどくさい同行者なのかもしれない、確かに。せっかくこんなに遠くへ来ているのだから、無駄足をしてみたいのだ。
東竹車站、付近に民家が数軒あるだけの田舎駅。犬がえらい勢いで吠える、ふだんは人が通らないのだろう。駅舎は比較的新しくて、トイレはきれいだった。


台中の宿いらい、タイヤの空気圧をチェックしていない、調べてみたら案の定だった。私もchuさんも充填して出発した。この余分な行為が翌日にまた効いてくるとは思いもよらず。
舊東里火車站はすぐだった。
廃線跡の駅と駅舎がサイクルステーションになっている。サイクリングロードの起点にもなっていて、“玉富自行車道”という。玉里まで続いていて、環島のルートで唯一“玉山“(新高山3,952m)が望める場所ある。しかし、工事中であったし天気も薄曇りで残念だったが玉山は見れなかった。




廃線跡の駅は、プラットホームや駅舎がよく保存せれていて環島の休憩ポイントとして十分な施設になっている。舊(旧)駅舎には店番もいる、軽い飲食ができるようになっていた。



最初から計画に入っていた玉富自転車道は、走り出してすぐに工事中で通行止めになった、国道へ出て少し行くと警備員がいた。大声でそこから通れるか聞いてみた、警備員は手招きして「こい!」といっている。国道を渡って工事用のゲートから自行車道に入った。したら、またすぐ20mほどで通行止めだった。やっぱり警備員に通じていなかった。けど、なぜ中に入れたのだろう、国道に出るときに警備員に文句を言いたかったが、その言い方がわからない、警備員は私が国道を渡るのをサポートしてくれた。その後なん度か出入りを繰り返したが、玉里の手前まえの橋までほぼ工事中でえらい時間がかかってしまった。



工事中の自転車道は、すぐ際にバナナの畑やマンゴウらしき樹が実をつけていて、手をのばせば取れた。もちろん取ることはしなかった。
chuさんは、二度目の通行止めから国道へ回ったようで、はぐれた。



2kg、有機白米 280元 (1,400円)、高いものは、古典花渼布提 500g、699元ってことは7,000円/kg、これってムチャクチャ高い米ではないか。
玉里自行車道でモタモタしていて、玉里の街域に入ったのが12時を過ぎていた。昼飯にしようと思い、chuさんに連絡してみた。chuさんはすでに7-ELEVENでなにか食べているという。連絡してなんだか損した気になった。
玉里自行車道でモタモタしていて、玉里の街域に入ったのが12時を過ぎていた。昼飯にしようと思い、chuさんに連絡してみた。chuさんはすでに7-ELEVENでなにか食べているという。連絡してなんだか損した気になった。
市街地に入って飯屋を探す。“玉里橋頭市集”、道いっぱいにいろんな店が広がっている。夜市になるところなのだろう、昼食どきでけっこうな人出だ、chuさんは近くにいるのだが、この頃から別昼飯が基準になりつつあった。それぞれのペースで走ることに互いが慣れてきて、調子がいい。
選んだ店は屋台が並ぶ通りの角で“環(璞)石閣麺餃坊”、なんども書くが、ネーミングの基準を知りたい、理解できない。


店は入り口にメニューが掲げてない、外の看板には玉里麺・水餃・扁食とある。大丈夫そうだと思ってこの店を選んだ。
入り口に券売機がある。どうするか迷っていると、奥から青年が出てきて私の手から100元札を取り上げて麺類を一品買ってくれた、野菜も欲しいと伝えるともう一品食券を買って奥へ消えた。“てまえセルフ”楽でいいじゃないか。
出てきたのは、野菜の炒め物とご当地ラーメン“玉里ラーメン”だった。この店のパパ風老人が真っ赤な薬味らしき瓶を持ってきて、入れろという、なにやら危険そうなので遠慮した。
店内と外に日本語表記で“玉里ラーメン”のポップや旗があった、偶然この街の名物を食べることになった。なぜこの街で日本語表記なのか聞けばよかったのだが、ラーメンの味も忘れてしまっている。そのあと街の人ごみに外国人が意外と多いのに気が付いた。
こんな田舎町で白人系の外国人を見ると、みんな不良外人に見えるのはなぜだろう。自分もなんでこんなとこにいる?外国人なのに、こっちの方がよほど怪しいはずだ、と思う。
私が食べ終わるころにいなって店は混み始めた。chuさんも走り始めているはずなので店をでた。
玉里も玉山國家公園の登山口だった。
調べてみた。
八通関越嶺道の登山口から玉山まではそうとう長い、登山口には“八通関古道”というバス停があって、シーズンには玉里車站からの登山者が多いのかもしれない。
八通関古道も調べてみた。日本の道としての東山道のようなものかと思ったら、道としての東山道は壬申の乱というからむちゃくちゃ古い。台湾の有史は日本に比べてまだ新しい、八通関古道は、清朝の時代に西海岸から玉山を通って東海岸にいたる古い道だという。東海岸は山地人の野で、15世紀鄭成功の時代だった。
登山口から玉山までの距離を地図で確認すると、50㎞以上ありそうだ。台湾アルプスの東側は南アルプス南部の3倍ほどアプローチがありそうで、奥が深すぎる。池上の青年はこの道を歩いたのだろうか。
国道9号線から外れて、高寮橋を対岸に渡る計画だった、橋が崩壊していたので9号線をそのまま北上することにする。豊坪渓に架かる大きな太平渓橋の手前でchuさんに追いついた。北回帰線が通る高原まではかなりの上りでヘロヘロになった。chuさんは「ゆっくり行くので、先へ...」と言ったが、北回帰線にはほぼ同時に着いた。


東海岸側の北回帰線は嘉義と違って、人の多い観光地になっている、ロケーションもこっちの方がいい。高原の風で、お茶の産地でもあり、リゾートのようでもある。大観光地の花蓮からも近い。
一気に下って、瑞穂の宿へ。早めにgoogleナビに切り換えたのが、また失敗だった。嘉義のHotelと同じようにグルグル回されてえらい遠まわりになってしまった。
“驛香縁民宿”は果樹園の中にあった。客は私たち二人だけのようで、留守番の男が一人いて対応した。施設は大きい、部屋数もそうとうありそうだ、しかし他に人の気配はない。男はパスポートの提示を求めた。
パスポートの“岐阜”という字を見ると、係の男は「瑞穂!」とさわぎだした。この街も瑞穂なのだ。この付近、瑞穂・豊田・長良など耳なじんだ地名が多い。
調べてみた。岐阜の瑞穂市のホームページに台湾の瑞穂の記載はなく、姉妹都市も結んだことは近年ないとある、何だったのだろう。この係の男は岐阜に来たことがあるのかもしれない、しかしそんな話をするより飯にしたかった。


近くにリゾートホテルが数軒あった、こっちは客がいた。私は安い宿を選んでいるのでここがbooking.comでヒットした、部屋は十分な広さで、清潔だった。
近くには果樹園と畑しかない、明るいうちに自転車で10分ほどの瑞穂駅前まで食事に出かけた。




驛香縁民宿、Yi-Xiang Yuan Guest House、3,800円。