2 自転車での規範 f (台北~新竹)

 台北のホテルを出発したのは朝の6時、街はまだ薄暗くて道は空いていた。松山駅前に環島(ホワンタオ)の0kmポイントがある。この時に三人で写真を撮らなかったので、三人そろっての絵は最後までない。

早朝の台北、信号が全部青です、前方はginnanさん

   市街域から河岸へ出るところに、“大稻埕碼頭”(Dadaocheng Wharf)という洪水のとき河川と市街地を仕切る門がある。この門の前が環島(ホワンタオ)のサイクリングロードが実質的にスタートするところで、証拠写真を撮るつもりでいた。

 市街地側の信号に表示板がある。こういった表示がいたるところにあって、道路面にもコースを示す表示がずーっとあるので、ふつうに走れば迷うことはない。
 “ 站 ”は駅のことだ。
 台湾は漢字の宝庫である。大陸ではとうの昔に捨てられた旧字がたくさん使われている。この紀行文をワープロで書きはじめたが、漢字の変換が手に負えなくなってしまい、手書きで書いてからうち直した。地名は読めない・書けないの連続だった。最終的に記録に残すのはwordになったのだが、わけのわからない漢字は、いい加減になってしまった。

 また話がはずれる。台湾の教育制度は世界一充実している、基本高校卒業までが義務教育だ。大陸は10億の人民にたいし平等に教育を受けさせることを早々にあきらめ、漢字の数をうんと減らして手を抜いた。
 少し話を戻す。私の記憶と大違いの交通事情。
 歩行者や自転車にとって、信号は一つの目安に過ぎなかった。通れれば軽バイクや自動車はどんどん右折してくる。街はクラクションが鳴りやむことがなく、騒然としていて強いもの勝ちだったのが、現在は実によく信号を守る。岐阜・名古屋の方がよほど危険だ。
 クラクションもほとんど鳴らさない。
 台湾は、先進国になっていた。
 日本の道路は自転車が走れるようにできていないことは十分に認識している、市街域の道路で車がすれ違いながら自転車を追い越して行ける路は少ない。いまさら道路を広げることなどできないわけで、広い都市間の国道には誰も歩かない歩道がしっかりついている。自動車産業優遇政策の結果で、仕方がないかもしれない。台湾には自動車メーカーがない、世界一の自転車メーカーがある。
 すでに8時近くなって車が多くなっている。名物軽バイクの群れも相当な量で、大通りを渡るのがキツクなってきた。ジジイのローダーは無視されて、車道を台湾軽バイクと自動車はスイスイと流れている。自転車での走り方がわからない。
 証拠写真をあきらめた。門を入ったところに広場がある、台湾市民のサイクリストが何組か集まっている。
 なれない右側通行の台北市街地を抜けて、ほっと一息、休憩しようとしていたら、ginnanさんが来て、「休むのはまだ早いので行く!!」、と。


 長い初日が始まったのである。

 河岸の自行車道は平らで快適だ。アドレナリンも出ていたのだろうか、調子に乗って飛ばしすぎた。
 華江僑を渡ったところで道を違えた。出発前、google mapで環島のルートをトレースしていて、この橋を通過する方法が詳細に表示されていることに驚いていたのだが、そのことをすでに忘れていた。通勤車両であふれかえる幹線道路の左側を逆走するはめになった。

 mapの赤い矢印の方向へ直進してしまった。地元のローダーが右方向へ行くのを見ていたのだが、距離感がわかってないのと、彼らを信用していなかった。
 台湾軽バイク集団の洗礼は、この逆走中に起こった。信号で、歩道の幅は1mもない。目の前には軽バイクの集団がこっちを向いている。G.P.のスタートのように止まっている。
 危険を感じて、自転車ごと狭い歩道にあがった。
 chuさんはと見ると、車道で片足をついて止まっている、私の方を見ている。
 大声で「早くどけ!!」と、どなった。
 軽バイクの集団は、ダムが決壊したように押し寄せてきた。間一髪間に合った。
 この国は右側通行なのである、左側にいて正面から車が来ることは、日本ではない。
 大漢渓の自行車道に戻るのに小一時間かかってしまった。

 最初の休憩の三峡老街まで30kmも走ってしまった。ginnanさんもアドレナリンがでていたのだろうか、初日から飛ばしすぎた。最初は興味がないと言っていたginnanさんだが、三峡老街によるという。
 林家定さんと初めてここへ来たのは30年も前になる。その後一人でもう一度来ている。
 今回の旅の事前調査にあたって、参考にした司馬遼太郎の“台湾紀行”の取材が1993年とあるので、私が林家定さんと初めてここを訪れた頃と同じになる。長く続いた“蒋家”による台湾支配が終わりを見せる時期だった。
 ここでいう歩道とは、商店のならびの軒先の道のことである。

 新潟や東北地方にある雁木(がんぎ)とは意味合いがだいぶ違う、台湾には雪が降らない。
ここばかりは、車が襲ってくることはない。いうまでもなく、歩道は公共のものである。が、台湾では商店ごとの私が優っていて、自店の都合で店頭の歩道を盛り上げたり、そのままであったりする。軒先の歩道はほとんどのところで歩けない、軽バイクや店の荷物であったり、食堂のテーブルであったりする。なかには厨房がここの食堂もある。戦前はこんなことはなかった、戦後中国大陸からきた人たちが持ち込んだ、“万人身勝手”の中華思想だと、林家定さんが言っていた。台湾人は中華の人と違うらしいが、林家定さんは青島の空港イミグレで“同じ中国人なのに”といって、真っ赤になって怒っていた。万人身勝手を実践している。
 話をもどす。
 赤レンガの街並みは大正時代の建物だと言われる。見た目よりも新しい、30年まえに林家定さんと訪れたとき、大改修中であった。
 三峡老街に興味がないと言っていたginnanさんだが、事前の調べがあったらしく、街中の“三峡金牛角”という店が環島の初エイドポイントとなった。店は、三峡老街の有名店で観光ガイドやgoogleにも出ていた。

 クロワッサン風のパンを買い食いした。どう見てもアンパンで、餡が5種類くらいあって、店の前の歩道にあるベンチで食べた。一つ150円で、オリジナルのものをいただいた。ginnanさんのサプライズだったのだ。

 だれも三峡祖師廟へ寄るといわない、台湾のお寺は石柱の彫り物が売りで、特に有名なのがこの三峡と台北の龍山寺だ。東照宮へ行って陽明門を見なかったに等しい。

 台湾のお寺の本尊は観音様が多いという、龍山寺も観音様だという。仏教のお寺なのに雰囲気は概して道教のようだ。他に媽祖であったり関羽廟であったりして、見た目の区別はつかないし、媽祖も道教のことも私はよく知らない。ともかくお寺らしきものも街も赤と金でケバイことが共通している。

 峠を二つ越えた。一つ目は新北市と桃園市の境、“福山亭四面佛”と、“石門報恩宮山財神”という神仏(かみほとけ)の気配が薄い施設だ。
 台湾は3人の女神さまに守られているのだという。媽祖様と観音様と、それからマリア様だという。媽祖様は明らかに女性である、観音様は女性ではない、ややこしいのは仏教と道教が混ざったお寺が大半をしめる。日本の神と仏が混合したような寺廟が80%だという。これにドライブインが融合するので、もっとわかりにくくなってしまう。
 福山亭四面佛で50kmを超えて、11時近い。ここはどう見てもドライブイン風だった。休んでいるとchuさんが追い付いてきて、すぐに出発した。

 下って、石門大橋からの上りがきつかった。石門大橋は、出発前の計画で寄り道・取材のつもりだったけど、余裕がなかった。
 晴れて暑い、水も乏しくなった、標高差で200mほどの上りなのだが体がまだなじんでない。足がツリそうになった、ゲンゴロウさんお勧めのコムレケア(小林薬品)を飲んでしのいだ。石門報恩宮山財神も見た目はドライブインにしか見えない、ふしぎなものだった。日本的宗教の感覚でいうと、とにかくいかがわしく感ずる。

 石門報恩宮山財神はGIANTのコース図でみると、エイドポイントになっている。人もいて飲食できるらしきスペースはあるが、営業している気配がない。飲料水の自販機など無いので、ここの家人らしき青年に「水が欲しい」とたずねた、若者が奥にあるという。入るとお寺の本堂で線香が焚かれ、音楽が流れて金ぴかだ、女性が祭壇の飾りつけをしていたのでもう一度たずねた。右の奥にあると教えてくれた、さらに奥に入ってみた。蛇口が並んで”やま水”が流しっぱなしになっている、この水は生では飲めないと思って戻ろうとすると横に給水器がある、97℃の赤い表示と令水・茶が、冷たい水をペットボトルにいっぱいいれて表に出た。同じ山水(やまみず)だったかもしれない。施設の入り口で休憩しているとchuさんが上がってくる、同様に水切れだった。

 足がツッタというのでコムレケアをあげた。
 その夜の宿で、水の話をした。私は次の全家(Family Mart)で水が買えたので先の水を全部捨てた。chuさんが「なんで?おいしかったよ」と言って、ginnanさんに「そういう問題じゃない」と叱られていた。おなかをこわさなくてよかった。
 石門報恩宮山財神の前は大きな交差点で、岐南町の21号交差点を平場で右折するようなものだ。思案したあげく三段階左折をして安全を図った。まだ少し上りが残っている。

 そのFamily Martでの話がつづく。上り切ったところに、高速道路3号線のI.C.がある。左折してすぐY字路を右へ入る間違えやすいところだ。ginnanさん気を利かして、左折したところの全家(Family Mart)で休憩している、とLINEしたらしい。私は全家の前に白い自転車が止まっているのを見て立ち寄った。
 椅子に座って話をしていると、chuさんが通り過ぎてゆくではないか。先のY字路を真っ直ぐ行かれては困るので、大慌てで電話して止めた。
 「気が付かなかった」と、まったく周りを見ていない。「こんなに目立つのに、なんで気が付かんのや」と、ginnanさんがまたあきれていた。
 この旅で、chuさんは周りを見ていないことと、人の話をほとんど聞いていないことが発覚した。何度ももめたり大笑いしたり、とにかく面倒くさい人だった。

 Y字路を右折してから、環島のルートは幹線道路を外れる。田舎道を新竹市に向かって下ってゆく。どこにでもある日本の農村風で、稲刈りであったり、小川であったり、民家であったり、台湾にいることを忘れるような道だった。

 新竹市に入り、国道1号線に近づくころから夕方のラッシュが始まった。市街域でその群れの中に入り込んでしまい、恐ろしくてなかなか前に進めない。大きい交差点、特に右折レーンのある所では、横断歩道を通ったりした。これがかえって危険だとわかるのに時間がかかった。軽バイクと並んで信号待ちをしている自転車は、信号が青になったらそのまま直進するものと、軽バイクは思っている。ところが日本のジジイは右によって横断歩道をゆっくり通りだすので、軽バイクにしてみれば予期せぬ動きをしていることになる。「なんだ、こいつ、行かんのか」と。

 ※このレーンが自転車と軽バイク用なのだが、なれないと勇気がいる。
 信号が変わったら軽バイクと一緒に真っ直ぐスタートするのが、規範なのだ、軽バイクは自転車の前後を魚のように泳いでいく。二重駐車のすり抜けも少し早めに車道側に出ると、後続の車はほぼ徐行する。軽バイクは自転車の後に続いて、二重駐車を過ぎたところでさっと追い越してゆく。怖がって突然スピードを変えるのが危ない。自転車を右の道側へ急に逃げるのも危ない。軽バイクは右でも左でもどんどん追い抜いてゆく。
 交通量の多い交差点は、信号の停止線の前に軽バイク用の四角いゾーンがある。全部の前に出てゾーンの右に止まる、信号が変わったら、手で先に行けと合図する、軽バイクが出た後で車の前を走りだす、駐車する車以外は右に寄ってこない。

 国道1号線から新竹駅へ左折する信号を見落としてはいけないと、おおいに気を使った。
 左折して少しいくと今度は、信号のない右回りの大きなロータリーだ。日本にはこういう交差点はない。ぐるぐる回っている車のなに入るには勇気がいる。基本は軽バイクと同じでいいのだが、その群れに入れない。地図では直進方向へ行けばいいのだが、このロータリーには一方通行も含めて9本も通りがある。
 歩道を通って駅への本通りを避けた、結果、迷った。


 公園風の通りを抜けて、新竹駅前に出た。が、宿の場所がわからない。google mapで確認すると目の前のはずだ、人と軽バイクと車でごった返している。通りの反対側から見れば看板が確認できたのだが、近づきすぎて見つからなかったのだ。先に着いているginnan LINEが役に立った。バス停の前のビルの通路風のところをのぞくと、左側にエレベーターがあった。エレベーターの扉に「5F 賓城商務旅館」と大きく書いてある。
 名古屋の駅裏で雑居ビルの5階にある飲み屋に似ている。5階に上がるとRaleighがおいてあった、その奥にフロントがある。一階へ戻って自転車を立ててエレベーターに乗った。
 エレベーターは人が二人がやっと乗れる大きさで5Fにあがったが、エレベーターからなかなか出られなくてジタバタしていたら、フロントにいた青年が助けてくれた。自転車を立てていて、エレベーターの扉が開いているあいだにサッと出られず、ドアが閉まってしまう。手で扉を押さえてもがいている。なんとも滑稽なかっこうだ。

 chuさんから“着いた”の連絡があったので入り口まで助けに出た。chuさんのGIOSは重くて一人で上げられない、エレベーターにchuさんとGIOSをのせて1Fで待った。chuさんとGIOSが下りてきた、出られなかったという。chuさんだけ先に上がってもらった。空のエレベーターが降りてきた、GIOSだけのせてあげた、空のエレベーターが下りてきた。私が乗ってあがった。

 google mapのストリートビューで確認しないと、入口のわからない宿がある。
 部屋は3F で別のエレベーターで下り返す。部屋は清潔で十分な広さだ、ダブルbedが3台あり、webの画像の部屋と同じだった。

 賓城商務旅館、Bin chen Business Hotel  3,000円

 

※夜のロータリー

※宿のエレベーターから通りを見る

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