名古屋から台北までは那覇に行くのと大差ない、時差の一時間もあって無いようなものだ。飛行機は前後の乗り降りや手続きがめんどくさい、それでも昼には台北に着く。
2023年6月4日、楽走会の関ヶ原で話が盛りあがった。
ginnan(ギンナン)さんはすでに出かけるつもりでいたらしく、現地でGIANTのツアーが再開したことを話すと、二つ返事で、いいよ、といった。
ginnanさんは4年前に一度トライしていて、その時は雨が多く全コースの6割くらいしか自転車に乗れていなかったという。そのため全線を走りなおすチャンスをうかがっていた。
私も誘われたが、当時2週間の休暇を取るのがむつかしかった。その後、コロナ禍で機会を失っていた。
chu(チュウ)さんも行きたい、と参加になった。goto(後藤)パパは行きたいが体力的にムリだとの判断であきらめられた。私より4歳ほど上だ。
事前の準備から旅が始まり、帰ってからの写真の整理までを楽しまないとせっかくの旅がもったいないと思う。
今回は紀行文まで書いているので、半年近く引っ張っている。ずいぶんと値打ちに楽しんでいる。
自転車の整備はもちろん、現地での通信方法、コースの調査・計画、など忙しくなった。なかでもコースを下調べし、google mapでルート沿いのポイントを探索するために、mapを見ることが日課となり、その土地の物語を発見すると、もう台湾いるような気分になっていた。
持ち物のチェックリストなども作ったのだが、それでも忘れ物がでた。充電用のCタイプケーブルを1本しか持って行かなかったので宿の夜がせわしくなってしまった。スマホ・カメラ・タブレット、予備のバッテリーなど、便利な時代なのに旅行の持ち物が増えている。
私のスマホは古いので途中充電しないと一日もたない。
余談だが、ケーブルを1本しか持ってい行っていないのに、三俣のコンセントを二つ持って行った、が、ある夜chuさんに貸した、「宿のものだと思った」となって、返ってこなかった。
毎日服用している血圧の薬が、一部足りなかったし、現地で一人旅になることが多いと思って持って行った、カメラ用の小さな三脚など、ホテルに預けたOSTRICH(輪行袋)の中に入れたままだった。せっかく持って行ったのに。
事前に三人で何度か打合せをした。
最初の打ち合わせの時、ginnanさんから提案があった。この旅での基本的なルールである。
現地での移動・行動は自己責任で処理する。
金銭の貸し借りはその都度精算する。
はぐれた場合、LINEで情報を入れる。
迷子になったら、iシェアリングをONにする。
通信手段は二つ以上用意する、スマホもしくはタブレットを二つもつ。
その日の安否確認は、宿に着いたことで確認する。
重大事故がない限り、旅の最終合流場所は台北のホテル又は空港にして、途中でバラバラになっても止むなし。 いずれももっともな内容で、流石に旅慣れているginnanさんなのだ。
この人は、マッキンレーの登山やヒマラヤ遠征などの経験があって、それに比べればうんとゆるい遠征なので、どれも要を得ている。
スマホのアプリがすごく増えた。
VoiceTra(翻訳)、Booking.com(宿の予約)、iシェアリング(互いの現在地を確認)、KKday(ツアーの予約)、TheWeatherChannel(天気予報)、台鐵e訂通(列車時刻表)など。とても使い切れないと思ったが、すべてお世話になった。
この旅のginnanさんは、環島(ホワンタオ)のルート“R-1”を完全にトレースすることが目標で、私は最初理解していなかった。出発する前に台南の宿(5日目)までを予約したときginnanさんから、予約が早すぎるとクレームがついて、気がついた。chuさんは最後まで、帰ってからもわかっていなかったようで、「ginnanさんって、自分勝手な人だ」と思っていたみたいだ。
chuさんは、観光が目的ではないと言いつつ、結局後半は観光になっていた。初台湾のchuさんはそれはそれでよかったのだろう、のちに出てくるが「万人身勝手」なのだ。
「おれは急いどらんで」と、chuさんは朝の早い出発に異を唱えていた。
私の場合は、観光が目的ではないのだけれど事前にチェックした場所へできるだけ多く立ち寄りたい。したがって自転車はそこそこのスピードで走らないと、一日に60~100kmが走り切れない、ので朝は早く出発したい。しょっちゅう止まって写真を撮ったり、調べたりする面倒くさい同行者なのだ。自転車で台湾を走り回りたいのである。
おれは急いでない、などと言われると困ってしまうのだ。
ginnanさんは初日から朝暗いうちに出発していって、台南いこうは先行単独行動になった。
おれは急いどらん、などといわれて困っていた二人。
三人三様の思惑でもって、出発することとなった。
chuさんは11月7日に自転車をパッキングして私の家に持ってきた。

私は、この日からパッキングを始めた。梶川整形外科へ行き、膝に痛み止めの注射をうって、桃園空港から台北のホテルまでの移動に備えた。パッキングは8日の午前中までかかり、何が必携でなにがムダなのか判断がつかない。
ginnanさんは私と同じくセントレア前泊になった、8日に上社へVOXYで迎えに行った。
FELTを入れた私の輪行袋は、12.8kgで思ったより軽い。
森本(chu)さんの黒いGIOSは、14.8kgで自転車の見た目より随分と軽い。その代わり手荷物は大きくてすごく重そうだった。これを自転車の後ろ横にぶら下げて移動した、その馬力に驚いてしまう。
祖父江(ginnan)さんのRaleighは18kgだと言っていた。ほとんどのものをOSTRICH(飛行機用輪行袋)に入れたので、パンパンになっている。その代り手荷物はごく少量だ。
事前にChina-airの別荷は23kgだと確認していて、JTBで航空券を買ったときに三人とも自転車を持ち込むことも合わせて連絡しておいた。

セントレアの前泊は東横インで一泊6,445円、Booking.comで予約の練習をした。この旅で一番に高い宿代になった、嘉義のホテルが4,500円、台北のホテルが一番高級だったのだが東横インより安かったと思う。
帰りに台北の空港で土産に買ったチョコレートが、一番高くついたかもしれない。空港の免税店がボッタクリだということを今頃思い出した。
ginnanさんは帰国の前日に、台北の土林夜市で土産を買って輪行袋の中に入れていた。
旅慣れている。
11月9日の朝は早い。6時にはセントレアのカウンターに並んだ。
chuさんは岐阜から電車でやってきて、同じように一番に並んだ。

※セントレアの朝、ginnanさんと輪行袋が三つ。
まだほとんど人がいない、全てのことを先行してやらないと気が済まないginnanさんなのだ。
名古屋と桃園空港での自転車の扱いについて記しておく。
名古屋での荷物検査は、自転車だと大きすぎて普通のチェックインカウンターではできない。別の場所へ運んで検査のための機械を通した。帰りの荷物受け取りも、係の職員が別に運んできて、「自転車をお持ちの方~」っと呼んだ。
台北の空港は、全て普通の流れでスーツケースなどと同じ扱いだった。
ちなみに、バルセロナの空港にはスキー・サーフボードと並んで自転車の表示があったのを思い出した。
旅行のスタイルがまだまだ後進国の日本なのだろう。近くの温泉へいって、美味しいものを食べて帰ってくるなど。団体バスツアーの文化は海外に感染しているみたいだけれど。
私達は、桃園空港に降り立った。
自転車が出てくるまでの間に携帯の開通確認を行った。私は出国前からアジア全域で使えるsimに変えていたので、時計まで台湾時間に変わっていた。
3Gの時代に出張でこの空港に降りて携帯をONにした瞬間「ようこそ...」などとメッセージがきた。当時の通信代は社費だったのだが4日間ほどいて一万円くらいかかったような記憶がある。こういう時にかぎってどうでもいい用事で電話がかかってきた。今は仕事の用事はまったくない。この海外simは10日間東アジアの中国を除くどこにいても4,280円で、電話は使えないがデータ通信に困らない。しかし、LINE電話が使えるのだが、これがどういう仕組みなのか理解できない。
chuさんである。やはり繋がらない、スマホを二台持ってきているのだが、両方ともsimフリーになっていないようだ。ginnanさんのsimに入れ換えたり、私のを入れてりしてみたが上手くいかない。滞在期間中スマホなし、面倒なことになってしまった。単独行動ならどうでもいいのだが。
chuさんはパニック状態になった。

※空港で落ち込んでいるchuさん、乗ってきた便の客はもう誰もいない。流れているのは次の便の荷物なのです。私もginnanさんも、“やっぱりかあ”、と思ってみているのです。
ガストでの事前打合せのときに、chuさんをまったく信用していないginnanさんはchuさんのスマホを確認してみた。スマホは繋がらず、chuさんは、ショップへ持って行って確認したけど、もう一度持って行ってみる、と言っていた。しかし、今、台湾の空港で繋がらない。
到着ロビーの出口に、レンタルショップが開いている。そこで、レンタルWi-Fiを借りることにした。
chuさんは借りに行った。
すぐに戻ってきて、貸してもらえなかった、といっている、理由はわからない。
ginnanさんが「いっしょに行ってやれ」と促すので、私が一緒に、もう一度借りにいってみた。借りられた、今度は開通まで見届けた。なんだったのだろう。レンタルWi-Fiの料金が補償金もふくめて二万円以上必要だった。
とりあえず、よかった。
このWi-Fiルーターでの話し、夕飯に出かけた、chuさんのスマホが繋がらない、chuさんは慌てた、「なんかおかしい、壊れたか」。chuさんは、ルーターを宿に置いてきていた。
誰も笑わなかった。
紀行文のスタートがchuさん話しばかりになってしまった。
日本を出発する前にwebで応募する、外国人観光客むけのキャンペーンがあった。台湾政府観光局が主催するもので、悠遊卡(プリペイドカード)が当たるという。三人とも応募していた。

ginnanさんは外れた、私とchuさんは当たった。5,000元の悠遊卡(ヨウヨウカー)だった。LINEで報告すると、naganoさんから速攻で反応があって、22,000円相当だという。chuさんはレンタルWi-Fiの分を取り戻した。
この旅の間、トピックをLINEで送り続けていた。日本の自転車仲間や家族に報告することも旅の一部だった。
空港に着いたのは昼前だったのだが、台北行きの電車に乗ったのは三時を回ってしまった。

ともかくも、台湾での移動を開始した。
台北駅からホテルまで乗ったタクシーは、スズキのSWIFTなのに飛行機輪行のOSTRICHが後ろから乗ってしまって驚いた。日本国内の仕様より大きいとは思えないのだが。台湾タクシー侮れない。
事前情報で台湾のタクシーは、
1,000元札ではお釣りがない。
運転手は地図が読めない。
google mapを見せても役に立たない、場所は街の通りの名前で覚えている。
大きい漢字で行先を見せる。年寄が多いのでみんな老眼。
流しのタクシーはやめる。
など、全てガセネタで無駄な心配だった。日本からきたジジイは浦島太郎だった。
台湾は、先進国、なのだ。
台北駅のタクシー乗り場は、係の女性が一人いて、完全に取り仕切っている。タクシードライバーに文句など言わせない風になっている。
手際よく3台のタクシーに指示を出して、行先のホテルまで告げていた。後で調べたら、台北駅のタクシー乗り場で名の知れた女性だった。
ホテルまで150元だったが200元渡した。この国にチィップの習慣はない。


空港でもたついたので、この日の後の予定がすべてキャンセルになってしまった。ホテルに入ってまずは自転車を組む、すでに薄暗いので近くの夜市に出て夕飯にした。
ホテルは台北市のほぼ中心で、南京大飯店、いいホテルだった。この宿と翌日宿泊の予定の新竹市はginnan さんが予約した。フロントに日本語が話せるスタッフがいて、まだこの国に慣れていないジジイにはちょうど良かった。
事前にメールで、台湾移動中、飛行機輪行のバッグが預かってもらえる事を確認した。三日後にメールで返事が届いた。やや怪しい文面ではあったが「荷物を預かることであなたは心配ない・・・・」と、もはや台湾を旅してる気分になった。
ginnanさんがフロントで再確認した、2週間後にここへ戻ってくるのである。
ホテルの名は“洛基大飯店南京館”という。最初、ginnanさんからホテル名の連絡を受けたとき、”南京大飯店“ってあるけど、どこ?、っと、聞き直してしまった。googleで調べると場所が大陸北京のホテルが表示されるのだ。南京は台北市の通りの名であった。
戦後、蒋介石が台湾に乗り込んできたとき、南京・長安・青島・徐州などと大陸の名にかえた。蒋介石が大陸に反攻する意思を示した名残だ。中正(蒋介石のこと)や建國などとキナ臭い名に変えた。主だった都市には中正路がある、せがれの経国の名まである。蔣一族が台湾を“私”した歴史がずっと残る。ちなみに、成功通りも各地にある、この名は“鄭成功”(ていせいこう)に由来している。この人物の物語は台南市の稿にゆずる。
ついでにもう一つ台湾の古い話をしたい。林家定さんから聞いた戦前ことで、昭和天皇(当時皇太子裕仁親王)が初めて訪台したとき、台北のパレードをする大通りを“御成通り”などと言った。
総督府へ通ずる交差点に風呂桶屋があったという。日本統治の時代であっても、この風呂桶屋は立ち退かなかったという。数十年も前になるが、私の最初の訪台のときには、市中の角にまだあった。台湾に対する日本の姿勢がほかの占領地と違ったことがうかがえる。
朝鮮半島とこの島の対日感情の違いがこのあたりにあるのだろうか。
台湾の日本統治、1885年4月17日~1945年10月25日。
皇太子裕仁親王の行啓、1923年4月16日~同月27日。
横須賀から船で基隆港まで4日間、そのあと列車で基隆~台北~新竹~台中~台南~高雄~屏東~高雄、船で、高雄港~馬公(台湾海峡の島)~基隆港、台北によってから横須賀港にもどった。
島の西部を引きずり回されて、さぞかしお疲れになったろうと思われる。台湾東部はまだ山地人の域だった。山地人による最後の大反乱が1930年10月だったという。
皇太子をとても東海岸へは連れていけなかったのだろう。
大陸では、孫文の辛亥革命で中華民国が起きっていた。
松山駅の0kmポイントでの撮影や、GIANTの店でメンテナンスと部品の調達など、翌朝出発のときにホテルの前にあるスタバでのコーヒーなどなど、すべてキャンセルになってしまった。
ginnanさんの提案で、朝の通勤ラッシュが始まる前に台北市街を出るため、暗いうちにライトをつけて出発することになり、早々に寝た。

