11 台湾ヒノキと森林鉄道 f
今日は70kmを超えるの、少し早めの出発にしようと7時にした。

宿の玄関を出てみると、GIOSの後輪の空気がない。パンク、スローパンク?。昨日の夕飯に出かけたときはなんでもなかったような。chuさんに自分でチューブ交換をしてもらおうと、待つことにした。
ところが、10分たってもチューブが出てこない。chuさんはパンク修理ができないことがはっきりした、置いていくわけにはいかない。
このままでは1時間たっても出発できない、代わってチューブ交換をすることにした。すぐに終わった、はずしたチューブのパンク位置を調べるように言った、chuさんは部屋のバスルームへ調べに戻った。「パンクしとるとこが、わからへん」と言っている。
思うに、昨日の田舎駅で空気を充填したとき、バルブをしっかり閉めていなかったのではなかろうか、パンクしていなければ空気の漏れるところはない。
ChuさんGIOSのタイヤはレバーなしで脱着できた、タイヤが27インチだったりして。
ともかくも、7時半に出発できた。
とびっきりの青空で、明後日の清水断崖に取っておきたいと思いつつ、花蓮へ向かった。
昨日ginnanさんから晴天の清水断崖が届いていた、「俺の青空を残しておいてくれ」とLINEした。少し悔しい“清水断崖”だった。


途中の馬蘭鈎渓橋から双耳峰が見える。橋の名前は、後日この山の名前を調べるため記録に残しておいた。この旅を通じて、地名などいろいろとメモをしていて、振り返りの参考に役だてた。
調べてみた。Yandog shang 3,477mではないだろうか。
台湾には3,000mを超える山が160座以上もあるという。30年も前になるが、当時、台北市内に、家具屋の街、軽バイクの街など同じ業種の集まっている地域があって、そのなかに神田神保町のような書店の街があった。時間があったので何軒かのぞいてみると、日本の“山と渓谷”にそっくりの月刊誌を見つけて買った。その号は日本の北アルプスの特集が組まれていた、台湾の山についての記述は少なかった。台湾のアルピニストは白く雪の着いた山に憧れるのかもしれない、この国の方が迫力あるのに。例えていえば、韮崎あたりから見える南アルプスが3,500mの標高があり、尾白川の河原巾が1㎞あるようなものだ。甲斐駒でも3,000mにとどかないし、地蔵や観音は2,800mない。
優良な木材を産出する森林は、北半球において山脈の西側に多い。北アメリカのホワイトオークは、アパラチア山脈の西側、標高800~1,000m付近の地下水が豊富に流れる地域で産する。ヨーロッパのビーチはフランスとスイスのアルプス西側に森林を形成している。
台湾は阿里山の西側に広大な森林があり、台湾ヒノキの原生林があった。緯度が南なので標高が2,000m付近まで分布する。
後藤新平の時代に長谷川謹介なる人物がこの森林鉄道の建設を始めた、長谷川謹介は揖斐川・長良川橋梁の建設監修をしており、後藤新平と同様この地方と縁がある。ちなみに、台湾鉄道の父と呼ばれる長谷川謹介は長州の出で、私とは縁もゆかりもない。
戦中戦後にわたって多く伐採されたタイワンヒノキは、日本へ輸出され多くの神社仏閣に使用されている。森林鉄道の多くは日本時代に建設されている。日本の木曽や日田にみられるような植林ヒノキとは違って、屋久島のスギのように巨木である。現在はその多くが保護されている。日本はジャワ・スマトラ・ミンダナオの前に台湾を食べていた。
ついでに、インドネシアのチーク材は、オランダ統治時代に植えられた。日本は長い年月かかった遺産を刈り取って食べただけで、いまだに残り少ないい彼らの資産を食べている。
台湾の東海岸の山地は山が急峻過ぎて有用な木材を産する森林が形成しにくい、したがって開発が遅れ手つかずの自然が多く残っている。明治の初めまで東部の山地には首狩りの習慣が残る山地人が住んでいた。日本の統治時代になっても、この地域で反乱や暴動が頻発したという。乃木希典が台湾総統を1年で辞職した要因の一つだとも言われている。最後の大反乱が1930年だというから、時代は昭和に入っている。
首狩りを奇習だと言ってはいけない。日本の打ち首獄門も幕末まで続いていて、台湾山地人と大差ない。フランスのギロチンは1981年まで使用されたというから、恐ろしい。
ずいぶん話が外れてしまった。
花蓮への道は緩やかな下り基調で、きもちよく飛ばせる。鳳林市の国道にある並木が気になった。派出所の前で、その樹を背景にして自撮りしていると、chuさんが追い越していった。
走り始めてすぐ、chuさんが前方を走っていたので、その横を猛スピードで追い抜いてみた。少し先の信号で待っていたら、やっと追いついた、と。この間のことに気づいていないのである、どういう事??。


徒歩の環島組も多い、彼らは一様に単独で歩いている。「ガンバレ」と声をかけると笑顔で返してくる、台湾は四国と同じいくらいの大きさなのだけれど、四国八十八カ所より山坂は少ない。にしても何日くらいかかるのだろう、台湾国推奨のルートは約1,000kmになる。

花蓮まではやや下り基調で快適に飛ばせる。左上の画像の右から二番目が軽バイク・自転車レーンだ。鳳林付近で自撮りしてみた、周りの景色に見とれてこの手の画像を取る事をついつい忘れてしまう。唯一の自走動画だ。


花蓮の市街域に近づいてきて、風景が日本と変わらなくなってきた、ファストフード店や外食チェーンがきっちりそろっている。しかし、アジアの混沌は日本じゃないのだ。

花蓮へはお昼少し過ぎに着いた。都会である、人も車も、軽バイクも多い。駅方向へ左折する信号でchuさんを待ったが、来そうもないので、宿を確認して花蓮駅へ向かった。



花蓮の駅舎は斬新なデザインで、木材を使用した隈研吾風な新しい駅舎だ。観光地らしく駅前にはバスターミナルがあって、観光客をさばいている。
駅の背景は3千m超の山々が連なって、一大観光地の駅だ。出発前に調べた日帰りツアーのバス乗り場などを探したが、情報が古かったのかそれらしい赤い建物は見つからなかった。明日はKKdayで予約が入れてある。


ホテルへ戻ったところでchuさんと合流できたので、そのまま遅い昼飯を食べた後、宿に入った。
山水商務旅店、Shan Shui Hostel 、3,500円
ここに二泊する。