14 宜蘭から台北、900km突破、帰国。f (宜蘭~旧草嶺隧道~瑞芳~台北)

      14 宜蘭から旧草嶺隧道 f

 残りあと二日となった。今日の距離は短い、特に急ぐ必要はないのだけれど朝は早い。

 5時半には起きて7時前に出発した。宜蘭の街に通勤ラッシュがあるのかどうかはわからないが、ともかくその前に郊外にでた。
 お寺は灯りがこうこうとして明るい、一晩中ついているのか。小さな川を渡るころ完全に日が昇った。

日の出とお寺

 礁渓温泉を通過した。知本温泉と違って活気がありそうに見える。週の中日だというのに大きな温泉旅館は客が入っている気配がする。R-1の本線は2号線で、海岸部を通っているが、環1-7蘭陽平原線はこのお温泉街を貫いている。

 都市近郊の奥座敷的な風で、甲府近郊や松本の浅間温泉、あるいは神戸の有馬的な立地条件なのだろう。勝手な思いだが、知本温泉はさびれた鬼怒川・川治みたいに感じた。

 信号待ちをしているスクーターは若い女性だ、日本ジジイは、山を越えたので、安心していろんなところを見て楽しんでいる。

 かわった建物、台湾の観光スポットとしてよく登場する「蘭陽博物館」、ビルを斜めに倒したような格好でおもしろい。朝早いので中のことはわからない。 池の対岸から朝陽のあたる蘭陽博物館の写真を撮った。

 この国の習わしなのか、中華系がそうなのかわからないが、カップルもしくは夫婦連れで、頻繁に男が女性にカメラを向ける。この旅はもちろん、日本でも、ヨーロッパでも中華系の人は女性の写真をよく撮る。女性の方もそれにこたえてポーズをとる。スペインのどこかの街で、噴水の縁に腰かけて読書をしている女性がいた、その横に中華系の女性が座りポーズをとって撮影が始まった、読書の女性は立ち去った。中華思想の臭いがしないでもない。私がカミさんにカメラを向けようものなら、怒られて口も聞いてもらえなくなる。
 が、しかし微笑ましい光景ではある。
 私のカメラと博物館の間に、少し離れてはいたが、カップルが入り込んでポーズをとって撮影がはじまった。私は立ち去るしかなかった。万人身勝手の中華民族。

 外澳ビーチはサーフィンのメッカだ。高速道路を走れば、台北市内から1時間の距離で、海岸通りにはカフェやサーフショップなどが並んで雰囲気を出している。早朝の台湾湘南通りを自転車でジジイが走った、とにかく似合わないが、気分はいい。
 平日なのに多くのサーファーが海に出ている。少し先のFamily Martでコーヒーブレイクにした。2階のイートインが展望室になっていて、サーファーを見ることができる。chuさんが来ないかしばらく待ったが、自行列車に乗っている可能性があるので出発した。

 このビーチに沿って、サーフショップや飲食店が並んだ通りの画像を紛失したのでgoogleで探した。

 外澳ビーチ(Waiao Beach)、湘南でなくて、響きがワイキキに近いのがなんだかほっとした。

 真夏は暑くてたまらんだろうと想像がつく。

旧草嶺隧道まではしばらく海岸線を走る。日本読みはそうれいと読む。

この旅を通じて気がついたことがある。道路がキレイでゴミが落ちていない。日本の国道を走っていると、信号の手前には必ずポイ捨てのゴミが落ちている。空のペットボトルや弁当の空き箱・空き缶などが捨ててある。台湾で中央分離帯側は自転車で走れなかったのでわからないが、とにかく清潔に保たれている。スクーターに乗って、カニバサミでゴミを拾いながら側道を清掃している人をよく見かけた。ginnanさんはボランティアだと言っていたが、とてもそうは見えない。「海岸沿線は風が強いので、ゴミがどこかへ飛んで行ってしまうのだ」などと、冗談を言いながら走った。ともかく、道はいたる所で日本よりキレイだった。

 台湾のゴミ事情をもう一つ。日本では、決められた日に決められた場所・決められた袋に入れて出す。収集車がやってきて回収していく。この国は、音楽が鳴って突然収集車がやってくる、市民はそれぞれ決められた袋に入ったゴミを持ってきて、収集車に放り込む、街にはゴミ置き場がない。

 30年前までは、日本と同様にゴミ置き場があった。万人身勝手の中華、好き勝手に置くので街が汚くなり、収拾がつかなくなったという。分別ルールは日本より厳しいらしい。

 10時には旧草嶺トンネルの入り口に着いた。ここから見る海が最後の南シナ海になる、なんだか名残惜しいような気がした。すでに緯度は与那国の北になっている。

 旧草嶺トンネルの入口付近には台湾婦人のハイカーグループやローダーがすこしいた。台北から日帰りができる人気観光地の一つだ。売店でフランクと缶コーラを買った。150元、700円くらいする。けっこう高い、20年くらい前は千元札を出すとお釣りがないなど、いまは昔である。

 空港で両替するときに、ginnanさんが、千元札を少なくしないと困るよ、と言っていたが、ginnanさんが前回訪台したのは4,5年前のことである。総じて、お値打ち感がなくなったなー、ginnanさんの感想だった。たった4,5年で変わったようだ。

 売店の婦人はエプロンのポケットから無造作にお金を出して、千元札に対する釣銭をくれた。

 旧草嶺隧道。2千メートルと少しの長さで、中は明るく照明されている。にぎやかに音楽など流れていてほぼ人はいなかった、あっという間に通過してしまった。
 戦前に鹿島が鉄道トンネルとして掘ったという。当時の日本政府が新しい領土の統治・経営にいかに熱心だったか、本土をおいといても台湾のインフラ整備を優先したことがうかがえる。台北の下水道整備は東京より早かったという。

 漢民族の文化は、清潔に無頓着だった。彼らの中心は大陸内部の半乾燥地帯だったが、渡ってきたこの島は高温多湿の地であって、児玉源太郎や後藤新平が就任したころはマラリアやペストが蔓延していた。この明治の先進たちの努力で台湾の上下水道の整備は、日本の内地よりはるかに早い時期に完成したと、司馬遼太郎の紀行文にある。

 吉次茂七郎。現名工大で学んだ後、台湾総督府に入りこの工事に従事したが、マラリアに感染して工事途中で死んだ。当時の新聞に「血と魂の結晶」とあり、難工事であったという。死傷者は350名に及び、台湾人の死傷が多く出た、朝鮮人の死傷者の記述はない、日本人も死んだ。吉次茂七郎の碑は福隆側に残っている。台湾で、この種の碑はほとんどが破壊されるか撤去されたが、地元の強い反対で残された。嘉義の八田與一と同様の優しくまじめな技術者だったのだろう。ただ事業が地味なトンネルだったのであまり知られていない。

 1985年に新しいトンネルが開通し放置されたが、2008年に自転車道として再開通された。碑は忘れられている、漢字カナまじりの碑文が掲示されている。

 トンネルの北側口に福隆駅がある。駅前はハイカーでごった返しいていた。100人200人の人が駅前で行列している。タクシーを待っているのだ、みなトンネルへ向かう。貸自転車の店もたくさんある。ここで人の流量制限ができて丁度いいのかもしれない、一列車ぶんが一度にトンネルに入ったら休日の名駅地下みたいになってしまう。

 駅舎のなかも人が多く、自転車は駅舎の横の空き地で袋に入れた、ほどなくchuさんも着いた。自行列車を待って瑞芳まで輪行し、九份へ行って来ると言っていた。私は九份に二度行ったことがある、人が多く狭い道に土産物屋とカフェだけの観光地に行く気がしなかった。次に来た列車に乗って瑞芳へむかった。

 瑞芳駅の北口で自転車を組んで昼飯にした。“QQ堡”朝食専門の店だった。ここでランドリーの場所を聞いた。google mapで検索すると、この街になくて隣のその隣町まで行くしかないと思っていた、店の女主人が駅の南にあるとおしえてくれた。

 “QQ堡”の隣はブランチ専門の店で、こっちは開いていなかった。

 前にも記したが、この国は家庭で料理をする習慣があまりない。一人住まい用のワンルームマンションにはキッチンがついていない、三食を外食にする。その方が安くつくという、朝食専門店のチェーン店だけでも1万ほどあるといわれるが、どれがチェーン店なのか見ても判別できなかった。“素食”は肉が入らない精進料理のことで、最初は“軽食喫茶”の軽食だと思っていた。ほとんどの店でテイクアウトでき、家族分の朝ごはんを運んでいる台湾パパをよく見かけた。ちなみに、google mapで“朝ごはん”と日本で検索すると、なか卯・松屋・すき家などが出てくる。

 まだ宿には入れない、時間つぶしに洗濯をする、と今日の予定を決めていた。小さな町だが駅の南側は混んでいる、小学校の下校時間とかさなって、通りは迎えの親やバス、交通整理の人や歩いて帰る子供たちで、向こうが見えない、ランドリーの通りに入っていけない。渋滞がおきている、指揮権は交通整理の人で制服や腕章などしいていないが、通りの真ん中にでて仕切っている。渋滞の車はそれに従って、クラクションなど鳴らさない。子供たちが一番なのだ。

 池上付近の小学校で運動会だと思うが、全校生徒でリレー競技をしていた。子供たちは大歓声で、低学年から高学年までの混合で競争していた。相当な田舎の小学校なのだが、グランドは芝生が貼られ、トラックはアンツーカー、土がむき出しになっているところがない。旅の途中たくさん学校をみたが、土の運動場は見た記憶がない。学校は教育の場ではあるが、重要な社会資本だ。散歩道を幼稚園児が歩いていると、皆道を譲る、もちろん自転車もとまる。木曽川の散歩道は年寄が散歩している横をローダーが猛スピードで通り過ぎる。台湾は年寄・子供が一番の国だ。

 台湾の義務教育は6歳から18歳の12年間になる、社会に出るときの手助けを遅くまですることで、ドロップアウトするのを予防できる。 

人波がすぎたらランドリーはすぐ見つかった。先客の女性が二人いて、少し話しかけたらほとんどやってもらえた。もう三度目なので知ったかぶりをしないで、任せることに慣れている。結果、全てがフカフカになった。

 婦人が洗剤を買ってくれたのだが、箱を開けたら洗濯物を持って帰るための袋が出てきた。婦人はソーリーと言って、笑った。自分で20元の洗剤を買った、洗濯1クール、乾燥2クールも学習した。ほんとうにフカフカになった。

 3時過ぎに宿に入った、自転車を預けて九份へ行ってきたchuさんも到着した。九份の感想を聞くと、人の多さにアングリしたようで、すぐに退散してきたみたいだった。日中にジジイが一人でウロウロしていたら、怪しい人にしか見えない、たぶん。

 一度行けば十分な観光地で、リピートはない。昔の清里みたいなもので、土産物屋とカフェと人混みしかない観光地はやがてすたる。大自然や、人の生活か歴史がないと飽きられるのである。
 温泉地も同様で、巨大観光ホテルが館内で全てを取り込み、客を外に出さなかった温泉地は、やがて温泉街が死に、温泉地そのものが死んだ。北陸片山津など、ゴーストタウンになってしまった。
 草津温泉は宿が個々に持っていた駐車場を外に出し温泉街を整備した。近くの下呂温泉は旅館の下駄または浴衣を着ていれば温泉玉子をサービス、射的の係が役所の職員だったりして、温泉街に活気がもどり温泉街が復活して、若いカップルが多い。

軽バイクの左が宿の入り口で、その左隣をピンポンしてしまった。

 嫚嫚窩民宿。瑞芳の宿も入口がわかりにくい、隣の民家をピンポンしてしまった。それもchuさんも押したらしい、出てきた食事中の主人は、あごでそっちだと教えた。その入り口は簡代書事務所(日本の代書屋)、間口2間半ほどの4階建てビルの横3尺のドアが入り口で、名前もない。

 自転車は担いで狭い階段を2階へ、部屋は3階だった。wbedとsbedの部屋で清潔だった、wbedはchuさんに譲った。夕飯は駅裏のこじんまりした夜市へ出た。
 下に宿のリンクがはってある。施設の内部や設備はリンクの画像のとおりで」、清潔で快適だった。しかし、今回の旅行の宿のなかで一番わかりにくい入り口だった。隣の食事中だった主人はいい加減頭に来ているのだろう。
 このような民泊に近い宿は日本ではムツカシイだろう、台湾は食事の習慣が日本とは違う。どんな田舎の小さな町にも、それなりの夜市がある、食事を提供する店がある。宿は部屋貸しだけで、朝食もつかない、ヨーロッパのB&Bはだいたい簡単な朝食が用意される。日本の小さな個人の飲食店は絶滅危惧種だ、コンビニを探して、食い物を確保するしかない。四国の巡礼の様な環境が全国に展開されればいいのだが、そうなるには何百年のかかるだろう。
 日本は、自転車や徒歩のインバウンドは、想定していない。

 嫚嫚窩民宿、Man Man House Ruifang、4,100円。

         15 瑞芳から台北へ、最終ラン。

 最終日は松山駅まで50kmほどだ。

 宿は7時に出た、基隆河にそって台北を目指す。20年ぶりくらいに、基隆港へ寄ってみたかった、この辺りは古くから開けた地で、山間の道は狭く、自転車には向いていない。

 山の向こうの基隆港をあきらめた、基隆河沿いの約10㎞は快適に走れる。

 基隆の街に近づくにつれて、通勤ラッシュが始まり、5号線に入るころから軽バイクの群れに参ってしまう。
 七堵駅付近のガード下から本通りに出る信号で囲まれてしまい、信号が変わって集団が行ってからスタートようと思って待ったら、信号が赤になってしまった。
 これではいつまで経っても出られないわけで、次の青で軽バイクの群れに混じって出た。ずいぶん慣れてきたが、ドキドキする。
 軽バイクは障害物になれており、飛び回るハエの様に互いにぶつかることはない、スイスイと追い抜いて行く。クラクションを鳴らす車も軽バイクもまったくいない。ザックを背負っている自転車など私しかいない。自分でも邪魔だと思うのだが、みな気にしていない風だ。
 右に寄りすぎないで少し中央よりを走るのがコツだ。街中では車が追い抜くのではなく、追い越して行く位置取りをする、するとぎりぎりを追い越さないで追い越せるまで後ろにつく。決してクラクションであおることはない。右側をガードして軽バイクが入れないようにするのはかえって危険で、すり抜けさせた方がいい。
 右側はいろんな障害物があってほぼ真っ直ぐ走れない。日本に多い高齢者ドライバーは、なぜかほとんどいない。

 台湾の住宅は賃貸のアパート・マンションが多く、家族で暮らしている。先の話で付近に食事をするところがたくさんあるし、日用品はどんな小さな町にもある夜市で手に入る。高齢ドライバーが郊外型の巨大スーパーへ買い物に出る必要がないのかもしれない。巨大ショッピングモールは大都市の中心にあって、ユーザーは日本と異にしているようだ。

高齢者ローダーは、必死に真っ直ぐ走ることに専念している、台湾ドライバーの善意を信じて。

 大きな信号を横切るときは、周りを見渡して車が途切れた時をねらって突入する。ひるひなかになると車が途切れない、堂々と覚悟を決めて通過するしかない。みな運転がうまいのか、この旅で交通事故を見なかった。壊れた車はずいぶん見たので。どこかではゴツンとやっているに違いない。

 隠れているものをもう一つ、台湾は軍事大国なのだ。兵力を比較してみよう。

  アメリカ・134万、ロシア・115万、中国・234万、台湾・予備役ともに190万、(2024年)

 自国の人口に比してみるとその多さがわかる、緊張の有る国なのだ。しかし、街中には軍の姿は全く見なかった、どこに隠してあるのだろう。

 ちなみに日本は、25万、総軍事力で21位だそうだ。

 汐止にきてやっとサイクリングロードの入口を見つけ、ほっとする。基隆から台北の汐止付近までは台湾といえども、サイクリングには向いてない。chuさんに、自転車で走るのをやめにして、輪行するようにLINEした。chuさんは最初から自転車で走る気はなかったようで、台北の市内観光をしていた。台北観光に忠烈祠の衛兵交代を推薦しておいたのだが、防衛庁しかなかった、と言っていた。観光バスがたくさん止まっている右隣に、国家安全局ってのがあるが、どこへ立ち寄ったのだろう。

 汐止付近からの基隆河サイクリングロードは途中何カ所か工事中ではあったが、快適で最終のランにふさわしい。廃線跡のトンネルであったり、市民の憩いの場であったり、散歩している人、走っている人、十分に整備されて、台北市民は老いも若きも健康になるぞ!と思わせる。木曽川河岸のサイクリングロードが犬山から湾岸まで完成すれば愛知・岐阜県民の医療費がぐんと下がる、間違いない。

 環東大橋の下でバスケットの練習をしている青年を見ながら、しばらくぼーっとした。

 昼には松山駅に着いて、環島を無事に終了することが出来た。これから出発する若者が二人、準備をしていた。彼らの写真を撮って、私も撮ってもらった。

パッキング完了

 最終日、ホテルから空港へのタクシーを呼んでもらった。ginnanさんは最初のタクシーで出発していった、二番目のchuさんのタクシーが自転車を積まないとごねている、フロントの女性を呼んできた。ドライバーはしぶしぶ積んで、chuさんが出発した。最後の渡しは、タクシーが来るのが少し遅れたが、無事に自転車を乗せて出発した。
 台北駅で、私のタクシーは一番奥のタクシー降り場に着いた、改札まで少し距離がある。自転車を担いで歩いて行くとchuさんがまっていた。ginnanさんは先に行ってしまったようで、見つからない、という。
 ホームに入って、空港行の列車がどれか駅員に聞いた方が早いと思い尋ねた。あのエレベータに乗れと指さした。これがまた大荷物を持った旅行者ようの大きいサイズで、端っこにある。指示された通りそのエレベータに乗ってホームに上がった。
 chuさんは、空港で借りたWi-Fiを返すことで頭が一杯になっていた、さいごの三日間はそのことばかり話していた。ホームに上がるなり空港方面に向かう列車が入ってくると、これに乗ると言う。私は確認してからにしようと言ったが、chuさんはきかない。列車は空いていた、前の席の台湾婦人にこの列車でいいか、きいた。その台湾婦人は、少し日本語は話せて、これはローカルだから速いのに乗り換えろ、と教えてくれた。
 私たちは自転車を担いで乗り換えた。ginnanさんは、私とchuさんが乗り換えた列車に乗っていたようで、空港には同じに着いたみたいだった。

 台北の国際空港にはターミナルが二つあって、乗って帰る便がchuさんが借りたWi-Fiを返すターミナルと違った場合、空港内を電車で移動しなければならない。このオプションが出来るかどうか、chuさんは心配でたまらなかったのだ。事前に同じターミナルだから大丈夫だと何度も行っておいたのに。

 chuさんがWi-Fiを借りたカウンターに行ったらginnanさんがいた、待っていてくれた。chuさんは一人でレンタルWi-Fiを返しに行った。
 出発ロビーに上がって、輪行袋の自転車を一カ所にまとめて縛り付け、台湾最後の食事にした。ファーストフードの店しか無くて、最後の台湾飯が食えなかったのが少し残ねんだった。

 チェックインカウンターは目の前にある、chuさんは登場手続き開始まで少し時間がある、ので、安心したのか、空港の探索に行った。
 ginnanさんは、何でも先行型なので荷物を置いて並ぶ準備をする、という。この二人、途中で別行動になってよかった、結果的に。「おれはいそいどらんで」にブチ切れていたことだろう。

 最後にエピソードをもう一つ追加したい。帰りの桃園空港でチェックインカウンターに並んだ。chuさんは空港内を見学してくるといってどこかえ消えた。ginnanさんが先に輪行袋を預けたらなにやらもめている、来るときは必要なかった別費用が掛かると言われている。

 別のカウンターへ行って支払って戻ってきてチェックインを済ました。私は左隣の若い男性職員のカウンターになった、ginnanさんと同様のことを言われた、来るときは必要なかったのにおかしいとクレームをつけたが、「規則ですから」と言われて、別カウンターへ行った。
 初歩の英会話ものの、空港でのトラブル編で「責任者を呼べ!」ってのが、たいがい出てくる。カウンター長蛇の列で、もし責任者が来ても話を英語で通す自信などない。
 もう台湾$は持っていない、カードを出してしまったが、ブツブツ文句をつけたが、女性職員はサッサと決済を進めた。そこへ別の職員が来て係の女性に別費用は必要ないと告げた。係の女性はその場でカードの赤伝を発行した。「ほら、見ろ!」って英語は思い浮かばない。それを見てginnanさんも赤伝を発行してもらった。二人してカウンターへ戻って通常の処理にしてもらった。NT$3,474-は\15,000-くらいになる、これは大きい。今回の旅で最大の出費になるところだった。
 別カウンターで後から来た男性職員は、「責任者」だったのかもしれない。

 chuさん待ちになった。カウンターを見ると、一番端の窓口でトラブルなくチェックインを済ませてしまった。「たいしたもんだ、chuさんは」とginnanさんが感心していた。
 この旅で唯一ginnanさんがジタバタしているのをみた。

 891㎞になった、一度もカッパを着ることが無かった、私の海外旅行のジンクスは、最後まで続いた。

  2023年 環島 資料

11月 8日(水)
セントレア東横インに前泊

11月 9日(木)
セントレア ~ 台湾桃園空港 ~ 台北ホテル

11月10日(金)
台北 ~ 三峡老街 ~ 新竹

11月11日(土)
新竹 ~ 風情海岸 ~ 西湖渓自行車鉄橋 ~ 白沙屯 ~ 通霄駅 ~ 台中

11月12日(日)
台中駅 ~ 彰化駅 ~ 西螺大橋 ~ 員林 ~ 嘉義

11月13日(月)
嘉義 ~ 北回帰線 ~ 嘉南大圳 ~ 台南市街 ~ 安平古堡 ~ 客梢

11月14日(火)
客梢 ~ 台中駅 ~ 鼓山車站 ~ 高雄市内 ~ 東港 ~枋寮

11月15日(水)
枋寮 ~ 寿峠 ~ 大武

11月16日(木)
大武 ~ 邉界客桟 ~ 知本温泉

11月17日(金)
知本温泉 ~ 気根の巨木 ~ 鹿野站 ~ 舊鐵道桐花步道 ~ 池上

11月18日(土)
池上 ~ 金城武の樹 ~ 舊東里火車站 ~ 玉富自行車道 ~ 玉里ラーメン
~ 北回帰線 ~ 瑞穂

11月19日(日)
瑞穂 ~ 鳳林派出所 ~ 花蓮

11月20日(月)
太魯閣渓谷 七星漂海岸 花蓮市内の自転車店

11月21日(火)
花蓮站 ~ 清和隧道 ~南澳・蘇澳 ~ 宜蘭

11月22日(水)
宜蘭 ~ 蘭陽博物館 ~ 旧草嶺隧道 ~ 福隆站 ~ 瑞芳

11月23日(木)
瑞芳 ~ 汐止 ~ 台北

11月24日(金)
帰国

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