今日のginnanさんの行程は、彰化まで100kmと長い。朝の7時には出て行った。小さなエレベーターで自転車を立てて、降りていくのをカメラにおさめて見送った。

この宿は朝食付きで、具だくさんの台湾おこわと、得体のしれない白いスープ風が用意されていた。webではバイキングになっていたのだけれど、客が少なかったからだろうか。3人分出ていたのだが、持っていけるような重さではなかった。
腹持ちは良かった、ginnanさん残念でした。
一人で自転車を降ろせないので、chuさんと二人がかりで降ろした。大甲から台中まで輪行のつもりなので、75kmとやや短い。
きのう気が付かなかったのだが、ロータリーの交差点には旧市街区の東城門がある、夜食事に出たときに気づいた。通り抜けるのに必死で周りを見る余裕がなかったようだ。
台湾の古い街は大陸と同じ様式をとっている。大陸からやってきた漢人たちは、山地人と呼ばれた先住民から街を守るために、城壁で囲みそれぞれに門を設けた。各地に残っている。
新竹市役所は、日本統治時代の建物で、今も使われているという。当時の総督府は威厳だか威かくだかのために台湾の各都市に、今にして思えばそうとうムリをして建てたのだろう。立派な建築物だ。
市役所の写真を撮っていると、chuさんはタイヤの空気圧の不足に気が付いて、充填をした。このときすでにスローパンクだったようで、本日の事件が始まっていたのだった。


土曜日ながら、新竹の市街区の朝は、まだこの国の交通事情に慣れていない老日本騎行者には、少しばかりハードルが高い。この街でトレーニングされて、以後の市街域での走行にすくなからず役に立った。

国道1号線を南西の海岸部へ向かう。右折して風情海岸にでてやっと一息、土曜日とあって台湾騎行者が多い。一様にGIANTのそこそこ値の張るロードバイクが多い。服装も体型も格好がいい。先進国だと思う。
ここから海岸沿いに台中西部の街、大甲まで自行車道が続く。予定は大甲まで走って、台湾第三の都市台中の夕方ラッシュを避けるために、台中中心部まで電車の計画にしていた。事前に輪行列車の時刻表を調べ、遅れた場合のシュミレーションまでしておいたのに、大狂いになってしまった。
後龍渓を渡ったところでR-1の本線からはなれて、海岸沿いの道を走る。
西湖渓自行車鐵橋というのがある。自転車専用の橋で、webに画像がたくさん出ている。



R-1の本線からは外れているが、ここは外せなかった。橋は赤色で、組紐でまあるくくるんだような形をしている。
若者が二人いたので、シャッターを押してくれるよう頼んだ。お礼をいって日本人だと伝えると、イングランド人?かと思った、と言われた。白い髭のせいか、ヘルメットとサングラスを取って生粋のアジア人だと言ったら、青年は姿勢を正して「日本は私たちの友達です」と言った。
少し前に、麻生太郎ジジイが訪台して、台湾有事の際には日本も共に戦う、などと調子のいいことを言ったので、好日感情MAXのなかこの地にいるのだ。
古い日本語では、台湾のことを高砂国とよんでいた。先住民のことを高砂族とよぶ語源になったという。
以下、司馬遼太郎の台湾紀行から、
—–たまたま明治4年、琉球国の島民66人が台湾の東南海岸に漂着した、
そのうち54人が山地人に殺された。山地人は、西海岸の漢人だと思ったとい
う。—–その翌明治5年9月、日本は琉球国を琉球藩にし、日本にした。清は
これに抗議をしなかった。日本は北京に使者を送り、清国に抗議した。
清国側は口頭で、ここは清朝の政教の及ぶところではない、と答弁したという。
これを基に、日本は、台湾の東半分はどこの国でもないとして、兵を台湾東部
に出した。
慌てた清朝はこの討伐費を日本に支払って、台湾東部が清国領であることを証
拠づけたという。日清戦争の後、台湾は日本領になった。
後で書くつもりだが、日米通商条約のハリスによって、知らないうちにアメリカ人になりそうになったり、清国人になった後、日本人になり、現状は、中華民国国民なのか中国人民共和国人民なのか、はっきりしていない。
台湾の人たちは、ややこしい歴史を背負ってきている。
私たち日本人も、知らないうちに、台湾人と共に戦うことになっている。
知らないうちに。
さて私は自転車で走っている、防風林の中を道がつづいた、土曜日で人が多い。私は先行して大甲を目指していた、


白沙屯の駅を通過したところで、午後の1時をまわっていた。このままでは明るいうちに台中に着けない、海沿いを離れて1号線にでた
この季節の西海岸側は北東の風が吹く。1号線の道は広くて直線がつづく、フォローの風が背を押して30~40km/hで快調に走れる、これなら毎日100kmでも走れるような気がした。
chuさんからLINEが来た。白沙屯に着いたのでこれから街中へ入って駅へ行くという。
白沙屯拱天宮は祭りですごい人出だし、駅の場所がややこしいので、1号線へ出て南下した方がいいとLINEした。
少しして、Wi-Fiと自転車の調子が悪いと、返事がきた。
私は、通霄駅まで来ていた。







台中行きの列車に乗ったのは、4時。chuさんは一つ手前の駅で乗っていれば一緒に台中に行けると思ったが、chuさんには会えなかった。
台中駅に着いたのは6時近い、もう日が落ちて暗い。今駅に着いたのでこれから自転車を組んで宿に向かうとLINEしたらら、安いもんだからタクシーで来いと、ginnanさんがLINEしてきた。
その通り!!。自転車を担いでタクシー乗り場へ移動すると、タクシーは何台も客待ちをしている。
先頭のセダンが乗車拒否をした。すでに客が決まっているのかと思ったが、袋に入った自転車を乗せたくなかったようだ。二台目に並んでいたWISHのドライバーが降りてきて喧嘩をはじめてしまった。三台目はボコボコのWISHだったが、このドライバーも降りてきて言い争いに加わってしまう。
中華の人たちは、ふつうの会話でも、私たち日本人がみると喧嘩のように見える。中華の人たちの会話は独特で、三人が同時に喋る、これで話が通じているから面白い。ひょっとすると誰が自転車の客を乗せるのか相談していただけかもしれない。三台目のボコボコWISHがのせてくれた。宿はginnanさんから入り口がわかりにくいと、LIINEが入っていた。運転手が車載ナビで探してくれて、すぐにみつかった。自転車で来ていたら見つけるのに難儀していたと思う。
タクシー代は150元だった、200元渡してお釣りはいらないと伝えると、ドライバーはすごく喜ぶわけで、ホテルの入り口まで自転車を運んでくれた。この国のタクシー代は安すぎると思う。
コーラが40元、ラーメンが80~120元、水が一番高い。50元って250円なのだ。都市部にはタクシーがあふれている、競争が激しいのだろう。
chuさんが列車に乗ったのは5時半ごろだ、宿に着くのが遅れたので夕飯を先にした。
さて、その夜のホテルでの話。
白沙屯付近で、Wi-Fiの不具合の件は、レンタルルーターが古い型で電池がすぐに減って繋がりが悪くなる、のと、chuさんのモバイルバッテリーのワット数が小さいのでなかなか充電できない。などの要因が重なって、途中で切れたり繋がらなかったりしたのだ。ginnanさんのスマホは最新で、途中で充電の必要がないということで、ginnanさんのバッテリーをchuさんに貸した。最終日には、あげるといった。
自転車の不具合の件。今朝の新竹市役所で空気を充填したとき、すでにスローパンクだったわけで、30㎞以上を走れたことが奇跡的だ。ホテルの部屋でパンク修理のレッスンが始まった。chuさんは、チューブをタイヤレバーで無理やりこじ入れるものだから、チューブに穴が開いてしまう。空気を入れてみてもすでにパンク状態なのだ、一本しかないスペアチューブがダメになってしまった。先に外したスローパンクチューブにパッチを貼って、空気漏れがないか調べに行った、ginnanさんが調べたらうまく貼れてないし、別の空気漏れが見つかった。みかねて、ginnanさんが自分のスペアチューブを貸すことにした。
判断が早い。あした自転車店を探し、スペアチューブを3本買って、1本をginnanさんに返すことにした。GIOSのタイヤは28Cだ、翌日chuさんが買ってきたのは28~35Cのチューブ、これも?で面白い。
ちなみに私は、新品の18~28を2本とパッチ修理済を1本持ってきている。
このGIOS、左のシフターが内側に曲がったまま乗っている、飛行機で輸送中なのか、日本に帰るまで、chuさんはそのまま乗っていた。
このGIOS、一昨年だったと思うのだが、私の自転車工房に持ち込んで、前後輪のハブがあまりにもゴリゴリだったので、バラしてグリスアップした。BBもグリス切れの状態だった、シールドの似たサイズが手持ちにあったので交換しようとしたのだが、固着していて外れない、これ以上無理をするとフレームのほうを壊してしまうので、自転車屋へもっていってくれと、やめた経緯がある。その後交換したという話はいない。
この旅行記に出てくるエピソードの1/3くらいがchuさん話になっている。
chuさん話をもう少しつづける。chuさんが乗った新埔駅は木造駅舎でなかなか趣のあるたてものだ。誰にたずねたのか分からないが、台中行きの列車の時間をたずねたら、そんな列車は無いと言われたらしい。聞いたのが4時前だから、5時半過ぎまで無いと言われたのではないか。それとも、“Taitung”と言ったのではないか、台中は”Taichung“で、”tu“は台東になってしまう。西海岸の田舎駅から東海岸の台東行きの列車は少ない。”chu“と”tu“と”thu“など中華圏初心者にとってはムツカシすぎる。”zhu“などもある。
そのむかし、青島の奥の工場で事務員さんに中国語のレクチャーをうけていたら、やめときなさい、と林家定さんに笑われた。しかし、大連にいた知人は2年でほぼ話していた、才能なのだろう、私はバイリンガルにはなれない。
三人はLINEグループで情報を共有している。昼間のchuさんと私のやりとりを見ていたginnanさんは、chuさんが自力で宿にたどり着くことをあきらめかけたと言っていた。よくこられたものだ、と感心もしていた。
最後に台中を訪れたのは2008年だった、高速バスで台北の板橋から、林家定さんと移動してきた。泊ったホテルは丘の上で、台中市街の夜景が見えたような気がする。トイレットペーパーはそのまま流せた。
高山のホテルには「トイレットペーパーはそのまま一緒に流してください」と注意書きがある。
今夜の宿はビルの裏側だが、部屋は広くて清潔だ。トイレットペーパーは流せない。