4 嘉義の日本人f(台中~嘉義)

 三日目は3人ともに台中から彰化(Chang hua)へ輪行でのスタートだ。ginnanさんは昨日のうちに彰化まで走っておいて、台中へ列車で戻っている。いつものように朝早い時間に出発していった。私は7時ごろ、chuさんは例によってのんびりで、途中で自転車屋を探すことになっている。

 日曜日であることを忘れていた、7時の街はガラガラ、もう少し早く出て台中から走り出せばよかった。そうすれば100kmくらいの走行距離になる。

 旧台中駅舎は、数年前まで使われていた、ginnanさんが前回訪れたときはまだ旧駅舎だったという。東京駅であったり、ソウル・大連の駅もよく似ている。いづれも同時代のもので、姿がいい。
 レンガ造りの建築物は保存されていくのだろう、この国の旧統治時代の展示方法に暗いイメージを感じない、ずいぶんひどいことをして来ているはずなのだか。
 比べて新駅舎は近代的なデザインで巨大だ。一晩中さわいでいたのか、若者のグループがたくさんいる。不労者風の人も多い。

 輪行切符を買った、列車が指定されており別に自転車用のチケットも必要になる。袋に入れる必要がなく、そのまま乗り込める。
 駅舎のなかの7-ELEVENでおにぎりとサンドイッチを買って、コンコースのベンチで朝食にした。
 巨大な駅の中央通路のベンチで自転車を横に置いておにぎりをパクつく、まわりの人混みは何を話しているのかまったく聞き取れない。不思議な光景だ。
 ホームのことは月台と書く、発音はまねできない。なん番ホームか確認してこなかったので、改札を通ってからフロアーの掃除をしていた男性に、切符をみせて聞いた。三番月台だとわかった、モップを持った男性は、あのエレベーターにのれと教えてくれた。エレベーターまでついてきてドアを手で押さえてくれた。台湾国鐵の職員ではないと思うのだが、親切である、私が外国人だからだろうか。

 ホームに降りて職員に切符を見せた、ここでいいと教えてくれた。職員はスロープを持っていた、着いた列車から車椅子の婦人が降りてきた。

 乗ったのは輪行専用の車両ではなかった、最後尾で半分以上がシルバーシートだった。日本と同じようにトイレの前の車椅子をとめるところに、縛り付けた。

 彰化の駅は列車からそのまま自転車を押して水平移動で外へ出られる、女性の職員が笑顔で切符を受け取ってくれた。
 少しまえの飛騨高山の駅舎は、ワイドビューだと上りも下りも同じホームに入って、改札が目の前だったが、新しい高山の駅舎は普通の駅になってしまった。古い町に来たという演出が薄れて、世界的な観光地としては少し残念な気がする。
 今日は少し長いが、先に物がたりがたくさんある。

 9時に7-ELVENでコーヒータイムにした、というか二度目の朝飯なのだ。日本でのサイクリングと同様に、この旅でもルーチンになった、痩せない。

 彰化からの国道1号線も道幅が広く快適に走行できる。出発前に想像していたのは、日本のバイパス風の国道だったが、この国の道は大違いだった。一番右側に側道様なゾーンがあって、次に軽バイクと自転車用のレーン、次に大型バイク用、その次に自動車用が2車線ある。中央よりの車が自転車のレーンに入ってくることはない。車は、一般国道なのに最高速度が70km/hのところがあって、100km/hですっ飛んでいくが、危険を感じない。

 彰化から台南の入口までは都市間のつなぎ区間でツマラナイのだろうと思っていたが、ロードバイクで飛ばしたいコースだ。それを知っているginnanさんは、今日も100kmを超えて走っている。

 員林の手前、雲林懸警察局斗南分局新光派出所の前で写真を撮っていたら、若いお巡りさんが話しかけてきた。カメラのシャッターを押してくれて、そのうえペットボトルの水までもらえた。
 多くの派出所が環島のエイドステーションになっている、“鐵馬服務站”の看板にはロードバイクで走行中の絵と、トイレ・空気入れのマークが表示されている。
 この国の警察官は、選ばれた人達なのだろか、司馬遼いわく、「かれらは模範的であれと教えられているに違いない」。
 玉里から瑞穂への途中、オービスによる取り締まりに遭遇した、自転車で通りがかると笑顔で道を開けてくれた。
 日本より治安が良いのではないだろうか、アジアで一番かもしれない。
 まだ続きがある。

 花蓮でのことである。
 自転車店を探しに宿を出て国道を南に渡った先で通行止めになっていた。若い警察官が交通整理をしている、一目見ただけでシュッとしているのがわかった。左側の車線が完全にあいているので自転車なら通れると思い、進入しようとしたら若い警察官は私を制止した。じつに丁寧な所作で、向こうへ回ってくれと、案内した。事故や工事ではなくトラックがパンクしたのか、タイヤ交換をしている。
 私はその通りに迂回した。
 いずれもハンサムでスタイルからしてスマートだった。
 日本の若いお巡りさんがそうでないと言っているのではない。
 雲林懸警の若い警察官は、“環島ガンバって、気を付けて行ってください”といって送り出してくれた、にちがいない。

 派出所にいるとき、LINEが入った。
 斗南の7-ELEVENで二人が休憩しているというのである。chuさんに追い越された記憶はない、員林まで輪行したのだろうか。ginnanさんは台中から自走でなければツジツマが合わない。派出所から近いとLINEして、7-ELEVENで合流できた。

 7-ELEVENで休憩のあと、また3人はバラバラになった。16日間も朝から晩までずーっと一緒よりこの方がいい。
 彰化から嘉義のHotelまでは、88kmになる。chuさんは自転車店を探して寄ったが、日曜休みで、嘉義の駅近くのGIANTの店によった。ginnanさんは別のGIANTの店でバーテープを巻きなおしてきていた。

 場所を少し彰化よりにもどす。
 西螺大橋を通過した。濁水渓は、玉山(新高山)を有する中央山脈が源流の台湾第二の河川だ。台湾海峡に流れ込む河口付近があまりにも広いので、16世紀のヨーロッパの地図には、濁水渓を境にして台湾が南北二つの島で描かれていた。1937年に橋の建設が始まった。日本時代には橋脚部だけが出来た。戦後、1953年に完成して、現在は小型車、バイク、自転車用として、歴史的建築物に指定されている。環島の立ち寄りポイントとしてよく登場する。

赤い西螺大橋を過ぎたところで祭りに遭遇した。西螺の街には媽祖を祀る有名な寺院があるのだが、祭りは観音様を崇めるお寺の方で、通りが通行止めの直前に通り抜けた。

 この国は、祭りと葬式の区別がムツカシイ。どちらも鳴り物いりで賑やかなのだ。街なかで出くわすと通過するのに難儀する。その違いは、霊柩車が付いているかいないかで、飾り立てた車が何台も続いてくる。出発前の打合せでginnanさんが、台湾は祭りが多いので大変だ、と言っていたのは葬式だったのかもしれない。
 昔の話、組合の旅行で台湾を訪れたときのこと、乗っていた観光バスが止まった、行列に出会ったのである、葛西社長さんという方が、“祭りか!”っと身を乗り出した。添乗員が「葬式です」と言った。行列が通過するまでの間バスの中からず~っと見学できた。大音量の音楽、ラッパ、でかいシンバル、赤い幟、人の行列など、一見すると祭りにしか見えない。 西螺では、道路を挟んで祭りと葬式が通っていた。葬式にはこの旅で、三度遭遇した。

 私はHotelへ直行した。

Google map のナビの話。
 嘉義のHotelはあらかじめgoogle mapに登録がしてある。LINEグループで位置情報を共有しているので、それぞれ探してたどり着く。予約した者が先着してチェックインと支払いを済ましておく。
 ルートの検索は自転車で行くように設定している。Hotelの10kmほど手前から案内を開始した。すぐに国道を右折して脇道へ入るように誘導された。近道があると思い、指示に従った。右折、踏切を渡って左折、えらい道が狭い、民家が密集している。たんぼの畦道にでた、人家が切れて遠くに集落が見える。先の集落までは田畑しかない、道はもっと狭くなって、車が来ると自転車を降りて脇に退避しないとやり過ごせない。

 自転車で案内をするので最短のコースが表示されていたのだろうか、この道順を選ぶ基準が理解できない。後でchuさんに聞いたら、一号線をそのまま走ってきて大きな交差点を右折したら、Hotelはすぐに見つかったという。
 この時google ナビを学習できていなくて、翌日も台南の宿を探すときに、旧市街地で夕方のラッシュのなかをグルグルしてしまった。その後、もう一度しっぱいする。

 嘉義のHotelは郊外で、結婚式場を併設した立派なものだった。宿泊客が少ないのか、空いていたし、設備や部屋のグレードに比して意外と安かった。ホテルにレストランがあったが、洋風で高そうだったので、タクシーを呼んで嘉義の街へ出た。
 タクシーが嘉義の駅前に着いたとき、助手席のchuさんが運転手に、この町のお勧めの店をきいた。日本語だったのでよかった。ginnanさんが大声で「ここで止まれ!」と、後ろの座席から身を乗り出した、英語だったと思う。
 私とginnanさんは医者に酒を止められているし、chuさんはアルコールが合わない体質らしい。台湾へいわゆる遊びに来ているわけではない。日本のどこか地方都市か、TVの番組の都市伝説的な話ではない、知らない外国の街であやしいタクシーに”お勧め”を聞くのは危険すぎる。のんきなものだ。
 その昔、シンガポールの夜に、四人で20万円くらいボッタクられたことがある。私が代表でカード決済したのだが、明細が来るまではドキドキだった。経理の事務員さんの顔が思い浮かんでくる。

 ginnanさんは、この後の単独行動を決めていた。
 夕飯は文化路夜市で食べた、夜市は結構な賑わいだった。

 帰りのタクシーの話。駅前のタクシー乗り場で、誰も並ばない、来た車に適当に乗って行く。よくよく見ると、ほとんどの若者がアプリでタクシーを呼んで、車番を確認すると乗っていってしまう。駅のタクシー乗り場でこれはないだろうと思ったが、日本からきたジジイ達は、台湾の田舎町でも時代に置いて行かれている。
 この国は先進国なのだ。

 昭和6年、嘉義農林(現国立嘉義大学)は甲子園の準優勝校である。優勝したのは中京商業、中京商業はこの後夏の大会で3連覇をしている。嘉義農林は呉明捷(ごめいしょう)投手、中京商業は吉田正男エースの投げ合いだった、吉田投手は一宮の生まれだ。
 一勝もしたことがない田舎の弱小チームを3年かけて台湾一の強豪校にしたのは、愛媛出身の近藤兵太郎という人物で、台湾野球の父と言われている。近藤は松山商業の監督をしていたが、わけあって嘉義農林の簿記教員を務めていた。話を聞いた校長以下関係者が近藤を口説き落として、監督になった。近藤は厳しく部員を鍛えた。走る、打つ、投げる、できるものがレギラーで人種差別を一切になかったという。ナインは、日本人3人、漢人2人、先住民族4人の混成チームが出来上がった。
 物語を調べて、当時を思いながらここまで書いていると涙が溢れそうになる。BGMに中島みゆきの「銀の龍の背に乗って」がぴったりだ。
 当時の強豪で日本人がいた台北商業を破って甲子園への切符を手にした。
この物語が映画になって、「KANO」という映画が台湾で大ヒットした。最近の話だ。2016年、嘉義大学と中京大学の親善試合が名古屋瑞穂球場でおこなわれた。

 近藤の銅像があるはずで、当時の古い建物も残っているという。当時のナインがどんな思いでプレーをしたのか、それに触れるために訪れてみたかったが、googleナビで迷ってしまい、逃してしまった。
 呉明捷投手は、その後早稲田に進み六大学で活躍した。プロ野球へは進まず、台湾に戻ることもなかった、東京で生涯を終えた。
 夕飯を食べた文化路夜市のロータリーに呉明捷投手の像がある。

 嘉南大圳
 もう一人の日本人、八田與一(はったよいち)の話。

 嘉義から台南までの野は、20世紀のある時期までは、不毛の地だった。
 八田與一は1886年金沢でうまれた。後藤新平の時代に日月の工事に参加したのち、1918年から嘉南平野の調査をはじめる。烏山頭にダムをつくって、嘉南の不毛の地を潤した。嘉南平野を縦横にめぐっている水路の長さは1万6千キロで、万里の長城が2千7百キロでしかないことからその規模がわかる。この嘉南大圳(たいしゅう)とよばれている水利の工事中に関東大震災が起きた。工事の予算が削られ、八田は作業員を解雇しなければならなくなった。有能な者はすぐ再就職できる、八田は、有能な者から解雇して再就職先の世話をした。現場に向かうトロッコ列車にふつうは機関車両に乗るのだが、八田はいつも土砂を積んだ貨物車両の上に座ったという。八田は東大出の高級官僚であった。

 戦後の昭和21年12月15日、日本人はみなひきあげて誰もこの地にはいなかった。
 八田與一は国籍や民族を超えた存在になていると、司馬遼は言う。
 近藤や八田のように、台湾の〇〇の父と呼ばれる日本人は多い、ヨーロッパの植民地支配と日本の台湾統治が違っていたのだろう。大陸や朝鮮半島の対日感情は今も当時を引きずっている。
 インドネシアはオランダからの独立日でなく、日本からの独立記念日に旗を揚げている。

 近藤兵太郎は、今年2024年1月4日に台湾の野球殿堂入りをした。

 私はいま善化付近の国道1号線沿いの嘉南大圳を自転車で走っている。

 私の環島の目的の一つでもある。台湾映画「KANO」の話を少し、映画は北京語・台湾語・日本語で作られている。  出演者は、近藤兵太郎に永瀬正敏、妻カナヱに坂井真紀、八田與一は大沢たかおが演じている。

 尊皇大飯店、Fon Huang Hotel、900元、4,500円。

ほとんどの宿で、自転車はロビーもしくは部屋に持ち込めた。

 台湾は共和国なので、天皇や清朝時代の皇帝などいなかった。尊皇とはどういう意味を持っているのだろうか。米国などと同様にRoyalに対する憧れでもあるのだろうか、他国の皇のために多くの本島人が死んでいったのに。

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