5 日本人と台湾の②f(嘉義~台南)

 ホテルから出てすぐはサイクリングロード、朝いちばんにはのんびりして丁度いいコースだ。体が慣れるまでは国道を遠慮したい。

 今朝もginnanさんは暗いうちに出て行った。高雄の先まで100km走ったようで、台南の宿まで戻ってきたと言っていた。私が先走って3人分の宿を台南に取っていなければ高雄もしくはその先に泊っていたのだろう。
 前もって言ってくれればいいのに。
 chuさんは、このころから自転車に乗るより、輪行が多くなった。今日もどれだけ自転車で走ったのか、ともかく明るいうちには宿に着くようになった。
  北回帰線を越える。北が温帯で、一歩南が熱帯だという。他に亜熱帯という域がある。調らべてみると、北回帰線と南回帰線(それぞれ北緯、南緯23.5度)付近の緯度が20度から30度あたりの地域を漠然と指す、とある。よけいにわからなくなった。
 webにものっている歯磨膏の工場が面白くて写真など撮っていたら、北回帰線を見逃して10㎞ほど行き過ぎてしまった。

 モニュメントと公園がある。地域の人にしてみればなんでもない所なのだけれど、日本からはるばるやってきたジジイは、感慨深く台湾にいるな~という気になる。

 LINEで楽走会に報告すると、VANさんから「いよいよ熱帯ですね!!」と書き込み。
 彰化を過ぎたあたりから、植生が変わってきていた。google mapで見ると、珊瑚潭の西嘉南大圳に広大な池地が広がっている、これも出発前から気になっていた。

 国道沿いに“菱角”の看板がたくさん出ている。そのうちの一軒に寄ってみた、作業場で夫婦が洗っているのか選別しているのか、プロパンガスのボンベがあるので、湯がいてもいるようだ。池は菱だった、たずねてみると一つ皮を剥いてくれた。食べてみた、白身で味はしなかった。一つ40円で小さなコンビニ袋に10個入れてくれた。宿へ持っていったけれど誰も手をつけなかったので全部捨てた、心配したけど、おなかは痛くならなかった。

 菱の池はほんの一部で、大半はウナギや得体の知れない魚の養殖池だった。

 そのむかし林家定さんの話を思い出した。
 日本の商社は台湾南部でバナナを殖産させた。大陸から渡ってきた漢人たちが山地人と戦って手に入れた耕地がバナナ畑に変わって、日本へ輸出された。おかげで、日本でバナナは高級フルーツから一般に食べられるようになった。バナナの畑は嘉義から高雄の南まで広がっていった。
 農民の生活は潤った。価格が上がるとみると、商社はバナナの生産を南米へ移した。日本のバナナは資本主義の巨大プランテーションの南米産にとって代わった。台湾バナナ畑は荒れた。
 日本は高度経済成長で飽食の時代になった。商社は、やがてブラックタイガーを養殖させて、日本へ輸出した。エビフライが町の喫茶店でも食べられるようになった。バナナ畑はつぎつぎと養殖池に変わっていった。
 やがてブラックタイガーはマレー半島へ移ってしまい、台湾南部の池は荒れた。

 林家定さんは話してくれた。
 ごく最近まで台湾の多くの人たちが、あの50年以外にも日本に翻弄され続けていたのだ。四国と同じほどの面積のこの国が、いま外貨準備高を世界4位に押し上げている。シャープのオーナーが台湾企業になった。chuさんは乗っ取られたと表現したが、むしろシャープは助けてもらったと言っていい。
 台南から高雄の南にかけては大工業地帯である。バナナの畑やブラックタイガーの池はいくらもない。

 高雄の南に漁港がある。20年ほど前まではマグロの一大水揚げ港だった。昼飯に付近のレストランでマグロの刺身をご馳走になったことがある。マグロ好きの日本人を接待したのである。当時、生の魚を食べる習慣がなかったので、ほとんどが日本へ輸出されていた。私は、こんな南まできて刺身はどうもと思いつつステーキの方がいいようなぶ厚いマグロを食べた。これもいまや、台湾国内で消費されるという。コンビニにはツナマヨサンドやおおにぎりが日本テイストでたくさん売られている。

 嘉南平野を善化付近まで来ると1号線は嘉南大圳(かなんたいしゅう)と並行しているところがある。台南に近づいて、R-1の支線で環島1-17山海圳支線に右折した。失敗だった、この支線を通ることは事前の調査で決めていた。高速道路の1号と8号の巨大なランプウェイがあって、そのルートをgoogleでシュミレーションまでしておいた。最初は調べたとおりのどかな田園地帯で、気持ちよく走れた。嘉南大圳の一部と思われる水路や、養殖池が広がるサイクリングロードを独り占めできた。国立台湾歴史博物館まできて様子が一変した。

 工業地帯に迷い込んでしまい、googleのルートどおりに前に進めなくなってしまった。道幅は広くコンクリートの中央分離帯があって渡れない。信号もないし、トラックは巨大で通過するときの風圧で倒れそうになる。自転車など通らない地域に入り込んでしまったようだ。天気も良すぎて暑い、水も乏しくなってき、たけれど、日本のように自販機はない。人など歩いていないし、あの軽バイクすらいない。

 これ以上工業地帯はかなわないと思い、台南の市街地へ南下することにした。道は歩道などなく、ラインも消えて砂ぼこりがひどい、散水車が水をまき散らして雨上がりの水溜まりの様になっている、閉口した。

 台南の市街域に入った。街は古く、通りは雑多で混沌としていて東アジアらしいのだ。二重三重に車は止まって、自転車と軽バイクのレーンはあって無いに等しい。現在地をgoogleで確認しながらできるだけ路地を通った。
 やっと運河を渡った、中心部から引っ越してきた新しい市庁舎の前に来てやっと走りやすくなる。旧市街域ではコンビニに寄る余裕を無くしていて、ここでやっと水分補給ができた。google mapで宿の位置を確認したら近かった。すぐに着いたのだが、今日も見つけることができない。うろうろして、近くを通りがかった台湾婦人にたずねた。

 婦人はスクーターで探しはじめた、途中まで自転車で追いかけたが、置いて行かれた。少ししてスクーターは戻ってきた。あらためてgoogle mapを見ると、宿は目の前だった。婦人は照れ笑いをしながらスクーターで路地へ消えた。
 ことほど左様に民泊に近い小さな宿は表がわかりづらいのだ。宿は常駐する人がいないので近所の付合いはない、近くに住まいする人が知らないのも道理だ。一般住宅の表札と変わらない大きさで「客梢」と、ガラス窓に掛かっていた。にしてもわかりづらい。

 この宿も留守番の青年が一人いた。工業地帯でうろうろしているとき、booking .comの連絡メールで、少し遅れるとメールしておいた。結果はもっと遅れて、部屋に入ってからメールを確認すると「あなたはおそくなっているか」って、中国語で入っていた。
 宿代を払って部屋の暗唱番号を聞くと、宿には客しか居なくなる、建物の出入りもこの暗唱番号でおこなう。私が遅れたので青年は帰れることが出来なかったのであろう。

 客梢、Cu Share、シングルbed x 2  ダブルbed x 1 、 3,400円。

 その夜は、宿近くの“好城嘟現炒”という店で3人そろっての最後の食事になった。宿に着いたとき少し時間があったので、付近を探索してみた。

 宿は運河に囲まれた安平區という台南市区にある。この地には17世紀に極東を目指したオランダが足がかりにしたゼーランジャ城が残っている。当時のオランダの根拠地はジャカルタであって、日本の長崎・平戸まではあまりにも遠い。台湾はまだ山地人の化外の地で、この島には興味がなかったが、中継基地として台湾に手をつけた。

 日清戦争のあと日本国内には、台湾などもらってどうするという反対意見があったという。国内のインフラ整備も、大陸も片付いていないのに、何もないこんな島はいらないということだったらしい。海軍が南方進出の中継基地として基隆や台南のこの地に目をつけた。水の補給や石炭の備蓄基地として必要とした。台湾の植民地化はじゃまくさかったようだ。

 オランダ時代は38年間続いた、日本時代は50年で終わった。

 ゼーランジャ城は“安平古堡(あんぴんこほう)”と呼ばれ、ジャカルタで焼かれた赤レンガ残っている。日本の平戸の古い商館にもあるのだろうか。
 鄭成功の銅像がある。この人物がオランダを追い出した、彼の母は平戸の武士の娘で、台湾では英雄で、いまだに人気がある。
 ゼーランジャ城とはほとんど呼ばないで、オランダのことは触れられていない。台湾では自国の歴史についての教育はしないという、ややこしいいのと危うい問題が多すぎるせいだろう。

 ついでに無駄な話をする。日本人はオランダのことを歴史で学ぶ、この国のことを良く知っている。オランダ人は、長崎の出島やシーボルトのことなど、一部の歴史学者以外は頭になく、過去の日本との関係など忘れ去られている。

 明るいうちは食事が出来そうな店が見つからなかったのだが、google mapで見ると、学校の南側の通りにいっぱい並んでいる。東南アジアのどの街にも共通しているのだが、どの商売も外から見ただけでは、営業しているのかどうか判断がむつかしい。
 この国は家庭で料理をする習慣があまりないのか、親子・家族で、中にはママと幼い子供などで、食事にたくさん来ている。店の方も、朝用・昼間専門・夜だけみたいな風で、朝早くから家族の分だかの食事を運んでいるパパをよく見かけた。瑞芳の駅裏で昼飯を食べた店は、夜やってなかった、翌朝その店の前を通ったが、やはり閉まっていた。婦人が一人でランチ専門の飯屋をやっていたのだ。
 一人150元の麺類と野菜炒めを食べるとする、一人分の食事代が750元/日になる。三食ともに外食にするとけっこうな金額になるのだけれど、この国の一般家庭はすでに日本を越えているのかもしれない。先進諸国の中でエンゲル係数は、イタリアに次いで二番目の25%と日本は高い。台湾も先進諸国だと思うのだが。

 は良く混んでいたし、美味しかった。ginnanさんが鍋を注文してくれた、写真を撮るから少し待てとginnanさんがカメラを出したとき、すでにchuさんは炒飯に手を出していた。

左からchuさんが炒飯を  

 宿はsbedが2台、wbedが1台、じゃんけんでwbedに寝る人を決めた。最初はグーと言ったのに、パーを出したginnanさんがwbedで寝た。笑っただけで誰も文句を言わなかった。

 留守番の青年とLINEの交換をした。SNSに載せるので評価が欲しいという。“いいね”の一択しかない。

 翌日、青年から“きおつけて、がんばってください”と中国語でLINEが入っていた。

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