今日の目的地大武(Dawu)までは60㎞と短い、寿峠という標高470mのぼりで、21㎞の距離を走る。R-1最大の難所と言われているが数字だけ見ると、大いしたことはない。この間を輪行してしまうと環島の意義が半減してしまうので、ガンバって越える。高山市内から西ウレ峠をイメージすれば丁度良いかもしれない。違うのは前日までの一週間を毎日自転車で走っていることと、峠直下のトンネルまでは国道9号線で大型トラックが行き交う、なによりも北東の強風がきつい。
環島の存在を知ったのは、2016年に“世界ふしぎ発見!”で鈴木ちなみがミステリーハンターをしていて、寿峠を上がるのを放映していた、いきたいと思った。ginnanさんはすでに知っていて行こうといってくれた。私はまだ仕事があって二週間の連続休暇がキビシイくて、断念した。ginnanさんは一人で出かけた。
その後、コロナ禍でしばらく海外に出られる状況でなくなってしまった。昨年GIANTのツアーが再開されることを知って、ginnanさんに声をかけ、人生最後の大冒険が実現することとなった。


寿峠を越えるまではと思って、chuさんと揃っての出発となる。ginnanさんは台湾最南端の恆春から出て、同じ日の峠越えなのだが、早いので途中で会うことはない。



アシストグリップが緩んでクルクル回るので、調べてみた。中華カーボンのフラットバーの端が割れているではないか。紙を巻いてきつくしめても改善しない。峠の手前のファミリーマートでやや辛めのフランクを買って、串を差し込んでしめてみた。1本で足らなかったので店員に「串だけあと二本」と言ってもらい、差し込んで増しシメした、かなり良くなった。それを見ていた男が「いいアイデアだ」とほめてくれた。なんか、うれしい。
楓港からいよいよ登りとなる。chuさんいわく、山は日本と変わらんのでどっかの田舎に来とるみたいや、と。藪のようなところにハイビスカス、生垣に大きなブーゲンビリア、赤松とおぼしきマツの葉は細くて長い。道路わきにバナナやパイナップルの畑があり、防風林の代りなのか田や畑の畦にヤシノキや檳榔の樹が並んでいる。
ススキの穂と、花と、果実と、稲刈りが同時にみられる。11月半ばなので人々は日本の真冬と同じ格好をしている。ただしスリッパに裸足だ、ここまで南だと靴下がないのだろうか。日本のジジイは半袖・短パンで目立つのです。
紛れもなく、ここは南国なのだが、chuさんには見えていないようだ。
寿峠は、海から上がって海へ降りるので、正味のアルバイトになる。勾配のきつい右カーブであえいでいると、後ろからダンプトラックが追い越していった、風圧でヨロメキながら右カーブを曲がったとき正面から強風がきた。側溝に危うく落ちそうになった、こののち、後方からトラックの音が近づいてきたら立ち止まることにした。

歩いて環島中の男性に会った。徒歩で一周している人もたくさんいる、「ガンバレー」と日本語でエールを送ると手をあげてこたえる。
この男性は、立ち止まって少し話をした。 私のパパは日本人だ、という。彼のパパは1945年以前に日本の教育を受けた人だとわかる。
スマホに歴史年表のようなものを表示して説明を始めた。話が長くなりそうな気配になってきたので、chuさんを置いて出発した。
chuさんは、すぐ追いついてきた。


自転車の青年二人連れが追い越して行った。ロングライドの仕様で、両サイドに大きなバッグがついている。国道9号線沿いの双流道之駅で休憩が一緒になり、ソフトクリームを食べていると話しかけてきた。台北を出発して環島だという、私たちよりはるかに速いペースだ。そろって写真を撮ってLINEを交換した。寿峠までほぼ一緒に上がった。
押し歩くことはなかったが、向かい風が強くてキツカッタ。
9号線から少し峠の道に入ったところで、通り雨がさっときた。これがこの旅で唯一の雨といえば雨だった。青年二人とchuさんが雨具を出したので、峠の方向を指さして、降らないよ、と言った。chuさんはカッパをしまったが、青年二人には通じなかった。私たちが走り出してすぐカッパを着た青年二人は追い越していった。
すぐに青空になり、風は強烈だが暑いくらいになった、青年二人はカッパを脱いでいた。
「Stop the Wind!!」と言って、横を追い越していくと、苦笑いをしていた、通じていたのかもしれない。
またすぐに、追い抜かれた。
かなり勾配のキツイところで、交互通行の道路工事に出会ってしまった。アメリカ規格の巨大ダンプトレーラーが何台か止まっている。その横をフラフラしながら上がっていくと、警備の男が前へ来いと手招きしている。トレーラーと並んで走ることなどごめんだ。
躊躇していると、早く来いと呼んでいる。そこへ行きたくないと、中国語で伝える術(すべ)を知らない、先頭にでてしまった。
やがて対向車が途切れて、警備の男が行けというので恐そるおそる工事中の道を大急ぎで上がった。その間200mほど、巨大トレーラーは来なかった、反対側にも数台の車が止まっていた。
その後、同じような経験を二度ほどする。 環島の自転車は優しく優先的に通せと、お役所から通達でも出ているのだろうか、日本からきたジジイだと気がついているとは思えない。
国道にトラックの検量所がある。女性の声が拡声器からなにやら聞こえてくる、それも大音量で。なにを言っているのかまったくわからない、下を向いてもくもくと上がっていると、「がんばれー!」っと聞こえた。
手をあげて応えると、あやしい日本語がいっぱい出てきた、日本のジジイだとわかったらしい。
あとで調べたら、この施設は警察署だった。署の前に検量施設があったので、検量所かと思った。とすると、声の主は女性警官または、女性職員だったことになる。
寿峠に着いた。東海岸のやまなみが見通せる。わずかに海も見える。観光客も数人、自転車も5,6台いる。寿卡鐵馬驛站の前で、先の青年の一人に写真を撮ってもらい、青年二人がならんだシャッターも押した。
chuさんも到着して、コンビニで買ってきたおにぎりとサンドイッチでお昼にした。


ginnanさんからLINEが入った。画像は、軽バイクがハの字になって、その下がわに白い自転車が写っている。
これは事故った、と思った。どうしていいのか分からず、先の青年の一人に画像を見せて、先行している連れが事故にあったようだ、と伝えた。
峠は、軽い騒ぎになった、ほかのローダーもふくめ、携帯で情報収集を始めた。
ginnanさんからLINEが入った。なんと、飯を食っているではないか。問いただすと、雨に降られてコンビニに逃げ込んで、俯瞰で撮った画像だという。
事情を説明して、峠の皆に平謝りになった。
皆を見送ってから、出発した。
大武までの下りは一気で、chuさんも遅れることなく大武に着いた。下りのスピードはモーターバイクに乗るchuさんの方がはるかに速い。


宿は峠をおりたすぐの街で、この旅で唯一chuさんが手配した宿だ。
台南の夜に、「chuさん、宿の手配くらいしろよ。そうしないと台湾の思い出が薄くなる」とのginnanさんの一言で予約した宿だ。たしかに全部がひとまかせでは自分が参加している感が残らないかもしれない。
ただこの宿を予約するのに、chuさんは2時間かかった。
大武の町は、山が海のきわまで迫り、国道の両側に人家がならぶ、小さな町だった。
輔都大旅社、Fudu Hotel、2,700円、安い。

歓迎自行車友住宿と幕がかかっている、自転車・ハイカー・モーターバイクの客が多いようだ。オーナーと看板犬が迎えてくれた、廃業した田舎町の駄菓子屋のようなロビーにソファーやテーブルが雑然と置いてある。
小さなカウンターの横にオープン階段があり、潮風のせいか、錆びた手すりをつかんで2階へ上がった。水場と洗濯機があって、洗濯物が干してあった。先客がいるようだ、自転車はなかったのでハイカーかもしれない。



部屋は裏側で窓が広く明るい、ダブルベッドが二つ、バス・トイレは壁で仕切てはあるが天井部分がオープンで部屋とつながっている。バスタブは多治見あたりの博物館にありそうな昔懐かしい丸タイルのコラージュで、水が漏れそうな気がするものだ。お湯は、「遠くからくるのでしばらく待て」、と書いてあった、しばらく待ったが来なかったので冷たいシャワーで済ませた、温かいので水でもさほど苦にならない。
チェストや木製のロッカーもあったが、開けると壊れそうなもので使わなかった。これはこれでレトロ感があって、面白い。
オーナーにランドリーの場所を尋ねると、宿の隣がコインランドリーだった、webでみるとここが宿のランドリーのように見たのだが、便利で文句ない


洗剤は別売りで洗濯は60元、コインへの両替機が置いてある、洗濯に来ていた大武婦人が丁寧に教えてくれた、乾燥は別料金で、ワンクールではやや乾きが甘いのでツークールにした。
スクーターで来て、大量の衣類を洗っていた男は、乾燥をワンクールで終えて帰っていった。のちに、この話をginnanさんにしたら、「この辺はもともと湿気が多いので、生乾きでも気にならんのや」と、まとを得たような、失礼なようなことを言っていた。
洗濯を待つ間に付近を探索した、7-ELEVENが3軒ほど南にある。ほかに何軒か店があったが小さくて夕飯にはどうかと思う風で、宿に戻った。ランドリーの前の国道の向こうにも数軒ある。路地の奥に夜市らしきものも見える。chuさんの洗濯物も一緒にもって、隣の宿に帰った、モーターバイクが一台増えていた。
夕飯は、宿の前の国道が広すぎてヒザの悪い私は渡り切る自信がなかった、ので、200mほど北の信号を遠回りしてわたった。
大武夜市、こんな小さな町にも夜市がある。小さな町がゆえに夜市がないと、生活必需品の調達にも困るのかもしれない。家族ずれが食事に来ている、若い人も多い、町の人の半分くらい集まっているのではないかと思わせる人出だ。この国の食文化なのだ。
お米を食べたい。“品客牛排”味見?、“牛排”ステーキ 150元(750円)、あと、猪と鶏、飯がないではないか。屋台の若い女性に聞いてみる、店主らしき男が出てきて、飯はないと日本語でいった。知っている限りの日本語で話しかけてきた。屋台が並んでいるが、麺類と台湾風ファーストフードものばかりで、あとは雑貨やゲーム・オモチャ・衣料品の店などで、夜ここへ日用品を買いにくるのだろう。
夜市での“飯”をあきらめ、国道の店をのぞいた。
營記海産店、冷気開放・合菜・附設素食、看板の根拠は最後までわからなかった。


噛排飯 80元、排骨飯80元、悾肉飯 80元、雞腿飯 90元、漢字はIMEに出てこないのでかなり違っている、より難解。
飯はありそうだ。「請先付款」先に注文して金払え、「結帳區」会計お願いします!、レジなんかない、「非工作員 請勿進入」これは英語併記なのでわかる。注文票が置いてある。この国の店の規範だ、日本ジジイはとりあえず入ってから、ああだこうだして注文をする。



食堂に入って座ったchuさん、女将さんに「そんなとこ座らないでこっちにしなさい」と注意されてた。
この画像をLineで送ったら速攻で、「chuさんなじみすぎ」とミヤさんから反応があった。
確かに地元の人にしか見えないような。
ルール無視の日本ジジイを、店は笑って送り出してくれた。もちろん美味しかった。
この環島紀行のなかで自転車より食いモンネタの方が多いのだが、疑問がある。
すべての店で味が日本寄りになってまろやかで薄味なのだ、どんな田舎の小さな店でも。特別香辛料の強いものや激辛なものはほとんどなかった。それと福建あたりの味なのだろうか。この10年ほどの間に台湾中華が変わってしまったのか、夜市でもあの独特の臭いがしてこない。むかしカミさんと台北の夜市に食事に出かけたとき、車から降りた瞬間、カミさんが、「ムリ!」といって引き返し、ホテルで高くてまずい飯を食べた。
オランダ時代に、大陸福建省から多くの漢人が山地人の島に流入した、それに伴って福建省西部で食べられていた客家(ハッカ)料理が持ち込まれた。
福建料理は、本来塩が控えめで淡白な味付けか砂糖による甘い味付けのものが多い。
この時点で日本の味に近かったのだろうか。戦後、蒋介石が大陸からありとあらゆる中華料理を持ち込んだ。大陸全土から中華民国派の人たちが中国五大料理の料理人を連れてきた。
なぜこんなに日本料理よりになtったのか調べていくうちにおもしろい文章に出会った。山本祥子・梅村修著「台湾の食文化に入り込んだ日本」、そのものズバリで同じことを思っている人がいるものだ。その経緯や歴史については記するのはやめる。
ただ台湾はジェンダレスの国で共働きが多い。必然的に外食が多くなる、外食は味が濃く脂っこい印象があって健康に良くないと、健康に関する意識が高まっている。
しかし、台湾全土での変わりようは理解できない。 日本の外食産業の多くは、専門の業者が調味したスープや出汁を利用していて、今では自前のスープを売り物にしているラーメン屋まである。昔は自店で作るのが当たり前だったのに。この国ではありえないのだが、少し残念な気がしないでもない。
日本の東海地区で売ってる”台湾ラーメン”激辛だ、こんなたべものは台湾にない。
コンビニで売っているスナック菓子には、びっくりするくらい辛い物があるので、辛い物も好きなのだと思う。
歓迎自行車友住宿と旗に掲げている輔都大旅社は、布団にカバーが掛かっていなかったので、エマージェンシーシートにくるまって眠った。
波の音が聞こえた。
東海岸
19世紀の半ば、台湾は清国だった。
ただ島の西半分が属しているだけで、東半分は化外の地(どこの国でもない)であったという。
日米通商条約で知られるアメリカ人ハリスが1854年に、ときの国務長官に、その西半分を買収するよう意見書を送ったと、司馬遼太郎の台湾紀行に記してある。
もし実現していれば、はるか遠く離れたアラスカになっていたわけで、以後のアジア史は大変りしていた、面白い。
ちなみに、アメリカは、1867年、ロシアのニコラス2世から、現在の価値でいう1億2.300万ドルでアラスカを買った。当然この金はニコラス皇帝の懐に入って、一般の人々には関係のない事件だった。
ちなみに、2023年、大谷翔平は、6億8,000万ドルでドジャースに移籍した。アラスカが六つ買える。大谷はグローブだけでなく、北陸の震災に多額の寄付をしている。