先日仕入れてきた冬瓜が余っているので、食わねば。

今日はこれだけ。

ツナ缶がフレーク過ぎて、それに水煮だった。

結果、どろどろ。
味の方は申し分なかったけど、ビジュアルは、なんだかな~~。
味付けは、豆乳・和風だし・酒・みりん・醤油・チューブ生姜の定番料理。
さて、城下町の話がおもしろくなって、もすこし調べてみた。ただし、WEB上のtubeは、アクセス稼ぎのインチキ、信用できない、面白半分が多すぎて、特に、AI音声のは全部だめです。ので、学会とか論文のpdfを探してみた。
川名禎氏(國學院大學准教授)のー「城下町」用語とその概念の変遷ーてのを見つけた。
これが今知りたいことにピッタリの内容で、以下色々引用した。
城が山から下りてきた話は、前回の稿で。‥‥城と城下、山下(しろしたと同意義)、と町、にい別けられる。城下町という用語が用いられ始めたのは江戸期に入ってからだ、と氏は綴る。その内わけは、城と侍と寺と町に明確に分けられており、新編相模国風土記稿(1800年、徳川家斉の時代)に少しだけ出てくる、とある。
そこで、岐阜市の歴史をみると、幕府は1602年に、中山道に伝馬制度を設けた、1634年になると、加納宿が定められ、それまでの岐阜町経由の中山道を、直接河渡宿に向かうように変更した。当時の幕府がチャンと行政をしてたことに、おどろくし面白くなってきた。
この時点で、岐阜の宿場町としての役目も終わってしまい、金華山周辺は尾張徳川領の飛び地になり、商工業を中心にやっていくしかなくなってしまった、と、ある。
城下町としての影はますます薄くなり、こうなると、信長に頼るしかないわけで、金華山下(しろした)や、河原町におくればせながら、やっつけの町を作るしかないんです。
家康の命により1601年(関ケ原の翌年)に岐阜城は廃城となり、代わりに加納城が築城され、ここでいう城下と宿場町が中山道53番目の宿場町として、加納が発展した。
駅南の加納地域も岐阜っちゃあ岐阜なんだけど、観光資源としては、ちと弱いのです。
大垣城下には伝馬町があるけど、加納には見当たらないので、近いことだし調査に行かねば。
などと、思っているのです。

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